三鷲山大昌寺|瀧山大善寺を創建した讃誉牛秀が隠居寺として建立
大昌寺の概要
浄土宗寺院の大昌寺は、三鷲山と号します。大昌寺は、立川の領主立川能登守清房の子で、八王子瀧山大善寺を創建した讃誉牛秀が隠居寺として慶長7年(1602)当寺を創建、寺領9石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 三鷲山 |
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院号 | - |
寺号 | 大昌寺 |
住所 | 日野市日野本町2-12-13 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大昌寺の縁起
大昌寺は、立川の領主立川能登守清房の子で、八王子瀧山大善寺を創建した讃誉牛秀が隠居寺として慶長7年(1602)当寺を創建、寺領9石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による大昌寺の縁起
(日野本郷)大昌寺
宿の南の裏寺領の内にあり、三鷲山と號す、浄土宗、京都知恩院末、文禄三年僧讃譽が起立する所なり、讃譽は瀧山大善寺の住職なりしが、退院の後當寺を草創し、慶長十年六月十二日化す。寺領九石の御朱印を賜ふ。この比のことにや、本尊知恩院白譽より當寺出世のことを奏聞して、綸旨を賜ひしと云、その時長橋ノ局より輿へし奏書なりとて、今に傳へり、客殿七間半に七間、本尊弥陀の坐像を安置す。
鐘楼。六尺五寸四方、享保二年中像の鐘をかけり。
辨天堂。境内にあり、是小堂なり。(新編武蔵風土記稿より)
日野市史による大昌寺の縁起
三鷟山鶴樹院と号し、浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。
この地にはもと金峰山と称する天台宗の寺院があった。この旧跡に大善寺(八王子市) の讃誉上人が隠退後、住民に懇請され堂宇を創建して大昌寺と号するに至った。慶長七年(一六〇二)のことである。第十五世湛誉林道大和尚(寛保三年[一七四三]六月四日寂)の代に再建された堂宇は、大正十二年(一九二三)の関東大震災に被災、昭和四年に修復した。修復前は寄棟造萱葺きであった本堂は、このとき入母屋破風造亜鉛板葺きに改めた。本堂内は内陣とこれをとり巻く五部屋の外陣、廊下(一間半)とから成る。
本堂須弥壇に本尊阿弥陀如来坐像・脇侍観世音・勢至両菩薩像が、位牌堂には法然・善導両大師像、開山讃誉、中興湛誉両上人像・地蔵菩薩立像(木彫金泥高さ一尺三寸)が安置される。山門は建築の年代を伝えないが、造りは重厚で、上部の彫刻は巧緻である。鐘楼は明治三十六年(一九〇三)に改築。梵鐘は享保二年が(一七一七)の鋳造で、鋳匠は多川民部見蔵であった第二次大戦中供出された。鍾銘も不明となるところであったが、郷土史家山上茂樹の拓本によって、その法韻(仏法の音)を伝えることを得た。内陣にあった青銅製の大灯龍も前記多川民部の作であったが、これも供出された。
当寺の寺宝で東京都重宝(典籍)となっている『説法色菓集』十巻は、天正十三年(一五八五)開山讃誉上人の筆になる。讃誉上人の墓は高さ三尺余りの自然石で、市史跡に指定されている。また幕末の新選組や農兵隊等の育ての親であり、明治十一年初代の南多摩郡長となった佐藤俊正(彦五郎)や幕末に江戸の狂歌師絵馬屋三世をついだ玉川居祐翁の墓(市史跡)等がある。(日野市史より)
大昌寺所蔵の文化財
- 説法色葉集(都有形文化財)
- 開山讃誉上人墓(市指定史跡)
- 玉川居祐翁墓(市史跡)
説法色葉集
大昌寺開山讃誉牛秀が天正13年(1585年)に著した全10冊の書物で、各冊とも縦26cm、横18.3cmの和綴本である。浄土宗の宗義をいろは48文字に因んだ48項目に分け説法の形式で詳述したもので、漢文体で書かれている。
讃誉牛秀は立川の領主立川能登守清房の子といわれ、川越蓮馨寺で剃髪、永禄年間(1558〜1570年)に北条氏照の寄進により八王子に大善寺を興した。慶長7年(1602年)、日野に隠棲して大昌寺を創建し、同10年(1605年)に寂した。(日野市教育委員会掲示より)
大昌寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 日野市史