蓮馨寺。川越市連雀町にある浄土宗寺院

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蓮馨寺。関東十八檀林、小江戸川越七福神の福禄寿

蓮馨寺の概要

浄土宗寺院の蓮馨寺は、孤峯山宝池院と号します。天文18年(1549)川越城主大導寺駿河守政繁が母の蓮馨尼を追福するために創建されました。慶長7年(1602)に設けられた浄土宗関東十八檀林の一つに数えられ、天正11年(1591)寺領20石を拝領した御朱印寺です。小江戸川越七福神の福禄寿が祀られています。

蓮馨寺
蓮馨寺の概要
山号 孤峯山
院号 宝池院
寺号 蓮馨寺
住所 川越市連雀町7-1
宗派 浄土宗
本尊 木造阿弥陀如来坐像
葬儀・墓地 蓮馨寺講堂
備考 関東十八檀林小江戸川越七福神の福禄寿



蓮馨寺の縁起

蓮馨寺は、天文18年(1549)川越城主大導寺駿河守政繁が母の蓮馨尼を追福するため、見性寺の住僧感誉上人を招いて創建されました。(のち、感誉上人はのち芝増上寺10世となっています。)慶長7年(1602)に設けられた浄土宗関東十八檀林の一つに数えられ、天正11年(1591)寺領20石を拝領した御朱印寺です。

川越市掲示による蓮馨寺の縁起

蓮馨寺は、天文18年(1549)、時の川越城主大導寺駿河守政繁が母の蓮馨尼を追福するために、感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である。慶長7年(1602)浄土宗関東十八檀林の制が設けられると、この寺もその一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど檀林(僧侶の大学)として栄えた。しかし明治26年に鐘楼及び水舎を残して全焼してしまい、現在の堂は、その後の再建になっている。入口正面の呑龍堂は大正初期の建築で、民衆から慈悲の生仏と崇められた呑龍上人の像が安置されている。
また、元禄の銅鐘(市指定文化財)は、入口向かって右手前の鐘楼に掛かっている鐘で、元禄8年(1695)鋳工木村将監の作である。この寺は室町末期の創建であるが、本尊である木造阿弥陀如来座像は、明らかに鎌倉時代の様式が見られるので胎内銘にある弘安時代の作と思われる。(川越市掲示より)

新編武蔵風土記稿による蓮馨寺の縁起

孤峰山實池院と号す。浄土宗、京都知恩院の末、関東十八檀林の一なり。開山鎮蓮社感誉存貞は当所の城主大道寺某が姪なり。初め小田原の傳肇寺に投じて薙染す。下総国飯沼弘経寺の鎮誉及び増上寺の果誉等の嗣法にて、当国足立郡平方馬蹄寺に寓居す。天文の始時の城主大道寺駿河守政繁が母、感誉に帰依して家人相澤持重と云ものを使として招請す。感誉これに応じ城下へ来りて、假に坊居を営みて居る。其後改て一寺を建立せしもの則当寺なり。これ政繁が母菩提の為に営みし所なるを以て、その法謚實池院柔誉光澤蓮馨大姉の字をとりて、寺号院号に用ひしとなり。かの假の坊舎につきて一寺とせしものは、今の高澤町の見立寺にして、感誉を開山とす。
後感誉は永禄6年当山より江戸の増上寺に転住し、同9年辞して当寺に帰る。明る10年8月12日蓮馨尼歿す。則感誉導師たり。
感誉は天正2年5月18日寂す。殊に高徳の人にて、在世の時開闢する処の寺院若干あり。高澤大蓮寺清戸長命寺、信州綱嶋安養寺、相州岩瀬大長寺深谷専念寺等なり。信徒三千人、弟子六百人、その上足は増上寺観智国師、浄国寺勝願寺二寺の開山清巌、幡随院・善導寺の二開山幡随意、大光院開山呑龍、大善寺開山讃誉等なり。感誉が化導の廣きこと知るべし。
当寺は天正19年11月寺領20石を賜はれり。其地古は五村に散在せしが、松平伊豆守が領主たりし頃、寺領をかへて今の如く門前の地を領すと云。今の堂宇は桂昌院殿の御寄附なりと云傳ふ。本尊弥陀の三尊坐像にて長二尺五寸許、佛工安阿弥夢中の告によりて、彫刻する所にして無双の霊像なりと云傳ふ。寺傳及制札書状左に載す。
寺寳
三具足一組。紀伊綱教卿簾中明信院殿の寄附し賜ひしものなりと云。
地蔵像一體。解脱上人養和元年に彫刻せし所なりと云
十念名號一軸。聖光上人眞筆なり、
圓頓戒秘決大綱集私記一軸
縁頓戒秘己證一軸
別授菩薩略作法一軸
縁頓大乗妙戒手次一軸
述聞制文一軸
浄土布薩市乗戒許句一軸
九條袈裟一頂松影硯一面
阿彌陀經傳通記田地譲與状各一軸。右三品は良忠上人より良暁上人に與へし物なり、
光明寺代々手次一軸
授与印抄一軸
名號三軸。一は尊胤親王御筆、一は弾誓上人、一は開山感譽の筆なり、
無量壽經二軸。光明皇后御筆
阿彌陀經一軸。尊胤親王御筆
三重巻物一軸。感譽の筆
熊野三段式一冊
護念經二冊
當麻大曼荼羅一軸
雲中出現彌陀畫像一軸
涅槃像
大曼荼羅一軸
黒本尊眞影一軸
采幣一握。金銀の金具を用ゆ、元の城主大道寺遺物なりと云、
太閤秀吉制札(文面省略)
下馬札
表門
本堂
鐘樓。元禄八年改鑄の鐘をかく、
東照宮。熊野を合祀せり。
秋葉社。享保八年元の城主秋元氏の造立なり
辨天社
稲荷社二宇。一は猪鼻稲荷、一は加祐稲荷と稱す。
地蔵堂。地蔵は石の立像にて長五尺許、子代り地蔵と云、相傳ふ此像は遊佐将監と云、上方の浪却諸國武者修行の時、此地に来りて彫刻せし所なりと云、大和國高市の里六道の辻の地蔵を模せし所なりと云、側に觀音像あり、長一尺五寸、長壽觀音と號す、地蔵及觀音の縁起あり取らず、又開山の像且了譽聖冏上人の像もあり、かの遊佐将監が子孫は、松平伊豆守が家人となりて今に存せり、
五智堂。五智如来の立像は眞海の作なりと云、又閻魔の像を安ず、此堂古は門前の西側にありしが、こゝへ移せし年代は詳ならず。
教海寮。中門に向て左にあり、寮司を今信誓と云り、
學寮。中門に向て右にあり、往古は二十軒程あり、外に寶池院といへる塔頭ありし由、しばしば回禄にかゝりて今はこの一宇をのみのこせり、(新編武蔵風土記稿より)


蓮馨寺所蔵の文化財

  • 元禄の銅鐘(元禄8年1695年)(川越市指定文化財)

蓮馨寺の周辺図