日輪山薬王寺|江戸幕府より寺領9石5斗の御朱印状
薬王寺の概要
真言宗智山派寺院の薬王寺は、日輪山と号します。薬王寺の創建年代等は不詳ながら、薬師堂の別当として、僧覺心が慶長10年(1605)に中興開山、江戸期には薬師堂領として9石5斗の朱印地を受けていたといいます。
山号 | 日輪山 |
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院号 | - |
寺号 | 薬王寺 |
住所 | 日野市栄町1-32-2 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | 薬王寺会館 |
備考 | - |
薬王寺の縁起
薬王寺の創建年代等は不詳ながら、薬師堂の別当として、僧覺心が慶長10年(1605)に中興開山、江戸期には薬師堂領として9石5斗の朱印地を受けていたといいます。
新編武蔵風土記稿による薬王寺の縁起
(日野本郷)薬師堂
小名四ツ谷にあり、則薬師領九石五斗の内なり、六間に六間半、本尊は坐像にて長一尺五寸、作知れず。
別當薬王寺
薬師堂の側に住せり、日輪山と號す、新義真言宗、高畑村金剛寺の末なり、慶長十年僧覺心の起立する所なりと云。(新編武蔵風土記稿より)
日野市史による薬王寺の縁起
日輪山と号し、真言宗智山派高幡山金剛寺末であった。本尊は大日如来で木彫一尺六寸五分の坐像である。
当山開基については明らかでないが、慶長十一年(一六〇六)九月八日僧覚心が中興開山の旨の刻板が発見されている。
本堂は宝暦年間(一七五一~一七六四)焼失したが、その後再建して今日に及んだもので間口三間・奥行三間半・宝形造亜鉛板葺きである。庫裡は間口四間・奥行五間、山門は四脚・間口一間半、以上いずれも東向きである。
江戸時代、幕府から高九石五斗の朱印地を請けており、明治初年までは日野宮権現の別当として同社を管掌してきた。境内七百三十坪、欅の巨木をはじめ竹木がうっそうと茂っている。また本寺金剛寺住職の隠退寺、もしくは金剛寺晋山候補の者の住職寺でもあった。
幕末期のものと思われる日野宿音杜領絵図を見ると、往時の薬王寺領の景観をうかがうことができるが、上宿から四谷道途中の石橋から西に向かって入る参道も、明治二十二年甲武鉄道の開通によって、寺領の田畑と共に分断されてしまった。『新編武蔵風土記稿』に載る四ッ谷薬師堂は、その別当薬王寺の側にあって、規模は六間に六間半あったといわれるが、その後いつの年代かに姿を消した。また山門外にあった弁天池の遺構は現在も残っているが、弁財天はいつの時代かに高幡不動尊の境内に遷座されたと伝えられる。(日野市史より)
薬王寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 日野市史