東雲寺|町田市成瀬にある曹洞宗寺院

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龍谷山東雲寺|成瀬城外護・城主中里氏一族菩提のために創建

東雲寺の概要

曹洞宗寺院の東雲寺は、龍谷山成就院と号します。東雲寺は、成瀬城外護・城主中里氏一族菩提のために、東渓竜谷に龍谷山成就院を建立した雲松院第3世龍谷性孫(天文5年1536年寂)を開祖とし、成瀬城落城後、当地に元和6年(1620)龍谷山東雲寺として再興した雲松院第六世明岩宗珠(寛永8年1631年寂)を開山とするといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領6石3斗の御朱印状を拝領、当寺釈迦堂の誕生釈迦佛像は七世紀後半(白鳳時代)の造像で関東以北では最古の仏堂だといいます。

東雲寺
東雲寺の概要
山号 龍谷山
院号 成就院
寺号 東雲寺
住所 町田市成瀬4-14-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



東雲寺の縁起

東雲寺は、成瀬城外護・城主中里氏一族菩提のために、東渓竜谷に龍谷山成就院を建立した雲松院第3世龍谷性孫(天文5年1536年寂)を開祖とし、成瀬城落城後、当地に元和6年(1620)龍谷山東雲寺として再興した雲松院第六世明岩宗珠(寛永8年1631年寂)を開山とするといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領6石3斗の御朱印状を拝領しています。

新編武蔵風土記稿による東雲寺の縁起

(成瀬村)東雲寺
字奈良谷にあり、寺領六石三斗の御朱印を賜りしは、慶安元年七月七日なり、その文に先規に任せてたまはるよしみへたれば、その地を領せしはそれよりもさきなることしるべし、曹洞宗にて、小机村雲松院末寺なり、龍谷山成就院と號す、開祖僧龍谷は天文五年五月二十七日寂せり、その頃は今の境内の向ひの地にありしが、明眼宗珠當寺に在住のとき、今の地へ移りしとなり、よりて宗珠を開山とせり、此僧は寛永八年正月五日寂す、本堂は八間半に七間西向なり、本尊は華厳の釋迦木の坐像にして長一尺ばかり。
寺寶。辨天塑像一枚。弘法大師護摩の餘灰を以作し所なりと云、形は板の如くにて長さ八寸幅六寸二分、中央に辨天の像をおきあげ、その左右に大黒・稲荷の二像をつらね、下には十五童子ならべり、裏面に掌の形をおして天長七年七月七日云々の數十字あり、下に空海としるせり。
鐘楼。本堂に向て左にあり、九尺に二間、延享二年に鑄し所の鏡を掛く。
衆寮。同邊にあり、六間に三間。(新編武蔵風土記稿より)

「町田市史」による東雲寺の縁起

東雲寺(成瀬)
所在地 町田市成瀬字奈良谷戸。
宗派 曹洞宗。横浜市小机町雲松院末寺。
山寺号 竜谷山成就院東雲寺。
開山 過去帳には開祖と開山とがある。この寺はもと、成瀬会下山にある成瀬城址の東渓竜谷に所在したもので、城主中里氏一族の菩提寺であったと伝え、成瀬城が小机城の枝城と推定され、本寺が小机城主笠原越前守の菩提寺松雲院であることから立証されよう。そして、その開祖竜谷は、この竜谷(寺あと)にいて天文五年(一五三六)五月二七日寂した。会下山の地名もしたがって生じたものであろう。しかるに、豊臣秀吉小田原城を攻略するに当たり、小机城も落ち、成瀬城また壊滅し、徳川家康江戸入府後、寛永八年(一六三一)成瀬村が松平忠直の所領となるに至って、この寺もまた現在地に移転したものとみられる。すなわち、これが東雲寺開山明眼宗珠で、宗珠は寛永八年(一六三一)正月五日寂している。
朱印 寺領六石三斗(慶安元年七月七日の朱印状その他あり)。
本尊 華厳釈迦木座像。長一尺。
本堂 正面中央二間半両袖三間ずつ。奥行六間半。木造瓦葺入母屋造、六〇坪。
付属建築物 位牌堂 間口三間、奥行四間木造瓦葺。
鐘楼 九尺四方草葺。梵鐘、「延享二年乙丑春二月吉日鋳物師江戸神田小幡内匠鋳」とあり、「諸行無常、寂滅為楽、生滅々己、是生滅罪」と銘してある。
庫裡 草葺木造建築四二坪。庫裡、本堂、位牌堂は各六間半と三間渡廊でつながれている。
このほかに境内に一間と一間半の金比羅堂および草葺三坪木造の物置があるが、この物置は昔は木小屋と灰屋共に同形の家屋が並んでいて、寺が農業をしていた面影を残していた。それが取り去られていて惜しいことをしたと思われる。
寺宝 弁財天塑像一。『風土記稿』に、「弘法大師護摩の余灰を以て作りし所なりと云。形は板のごとくにて長さ八寸幅六寸二分、中央に弁天の像をおき、その左右に大黒、稲荷の二像をつらね、下に十五童子ならべり。裏面に掌の形をおして天長七年七月七日云々の数十字あり、下に空海としるす」とあるのがこれである。この寺は享保八年(一七二三)焼失したと伝えられるが、明治一一年(一八七八)三月一七日にも全焼して、現在の建築は明治四三年落慶のもの。『風土記稿』に衆寮六間に三間のものがあったと記しているが、火災の時までここに成瀬学校が開校されていた。山門は石柱、その入口に六尺近い延命地蔵の石像が立っている。(「町田市史」より)

「境内石碑」による東雲寺の縁起

室町時代後期、小田原北条氏が関東に進攻するに及び、大永四年(一、五二四)頃、それまで廃城となっていた小机城を、重臣笠原越後守信為の居城とした。信為は父能登守信隆追善供養のため、曹洞宗臥龍山雲松院を建立、北条氏は更に勢力拡大に伴い小机城の支城を各地に築き、出城として会下山に成瀬城を築城した。
雲松院第三世龍谷性孫(一五三六・天文五年五月廿七日入寂)は、成瀬城外護のため、向い地に龍谷山成就院を建立、寺屋敷と稱する地なり。
豊臣秀吉の小田原城攻略に際し天正十八年(一五九〇)同城落つ。成瀬城は廃城となる。江戸時代になって成瀬村が松平忠直の所領となった頃、元和六年(一六二〇)雲松院第六世明岩宗珠(一六三一、寛永八年一月十五日入寂)現在地に寺を再興、龍谷山東雲寺と号し爾来連綿として法灯を護持し今日に至る。
当山三世松山南茂(一六六〇・万治三年五月九日入寂)谷戸上谷に観性寺を建立。
新編武蔵風土記稿によれば、慶安元年(一六四八)七月七日朱印状に寺領六石三斗とあり。(境内石碑より)


東雲寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「町田市史」