今井山正福寺|木曾義仲を最後まで守り通して自決した今井四郎兼平の子孫が創建
正福寺の概要
時宗寺院の正福寺は、今井山金平院と号します。正福寺の創建縁起等については不詳ながら、阿山一遍上人知心が正応年間(1288-42)に開創、平家物語に登場する・木曾義仲を最後まで守り通して自決した今井四郎兼平の子孫が当地に土着した際に、今井四郎の菩提を弔うために奉納した応永2年(1403)銘の本尊があったといいます。
山号 | 今井山 |
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院号 | 金平院 |
寺号 | 正福寺 |
住所 | 青梅市今井2-1045 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正福寺の縁起
正福寺の創建縁起等については不詳ながら、阿山一遍上人知心が正応年間(1288-42)に開創、平家物語に登場する・木曾義仲を最後まで守り通して自決した今井四郎兼平の子孫が当地に土着した際に、今井四郎の菩提を弔うために奉納した応永2年(1403)銘の本尊があったといいます。
新編武蔵風土記稿による正福寺の縁起
(今井村)正福寺
除地四段、小名七日市場にあり、館次郎采地の内、除地、亦其家の寄附なり、時宗にて相模國當麻無量光寺の末、今井山と號す、本尊三尊の彌陀、木の坐像長一丈三尺餘、左右の兩尊長一丈二尺許、足の裏に應永二年今井四郎爲菩提とあり、開山阿山一遍上人知心正應二年八月廿三日寂す本堂六間四面、又本堂の西に當て苔をびし五輪の塔大小十七基あり、昔より傳へて應永の年號みえしものありと云のみにて今辯すべからず、土俗の傳へには、今井某が家の古墳なりと云り、其子孫もあらざれば是非をしらず。
鐘楼。寛永八年卯月十三日、住持覺阿彌陀佛とほりたる鐘をさげり。
熊野権現社。境内にあり、社二間四面、木像の大黒天を相殿に置、長五尺、胎蔵にも一體の大黒天ありと云、作しれず。(新編武蔵風土記稿より)
「青梅市史」による正福寺の縁起
正福寺 (今井山金平院)
今井・七日市場(現・今井二丁目)にあり、本尊は阿弥陀如来である。前記(乗顧寺)と同じく神奈川県相模原市の無量光寺末である。開創は正応年間(一二八八~九二)と伝える。時宗開祖の一遍上人は正応二年(一二八九)八月に示寂している。『新編武蔵風土記稿』には「応永年間今井四郎兼平の末孫この地に来り、一丈三尺の阿弥陀仏を造立して足の裏に応永二年今井四郎為菩提と記していた」と記載があるが、この仏像は火災により焼失して今はない。『平家物語』(巻九)木曾殿最後の条で、主君義仲を最後まで守り、ついに 「日本一の剛の者の、自害する手本よ」と壮烈な自刃を遂げた今井四郎兼平の菩提として寺号も金平院と名付けられたのかもしれない。兼平の打死は元磨元年(一一八四)である。二百余年の後、兼平の後裔がこの地に来任し今井の地名も起ったと伝える。寛永八年(一六三一)鋳造の銅鐘銘の記録は残っているが、鐘は戦争中供出された。堂字は文化年間に炎上、後再建された。境内墓地に今井兼平ほか家臣十名の墓と称する五輪塔や宝象印塔があり、風土記稿は応永(一三九四~一四二七)の年号であったと伝えるが、風化が激しく現在では読みとれない。(「青梅市史」より)
正福寺所蔵の文化財
- 今井氏の墓(指定文化財)
市史跡今井氏の墓(指定文化財)
市内今井一丁目に今井城(市史跡)があり、天正年間(一五七三〜一五九二)まで今井氏が栄えていたという。その今井氏の墓と伝えられ、中世における墳墓としてきわめて貴重である。墓所には応永十年(一四〇三)および応永十四年(一四〇七)の銘がある宝篋印塔や五輪塔が現存する。
『武蔵名勝図会』には「往昔今井四郎左衛門尉経家の子孫、同宗家といふ人此地を数代伝領して子孫住せし故、村内正福寺をも開基し、墳墓もその寺中にあり」と書かれ、また同書正福寺の条に「本尊阿弥陀、脇士両尊、此仏の足の裏に銘文あり。応永二年(一三九五)今井氏為菩提と記せり」とあるが、この仏像は今はない。(青梅市教育委員会掲示より)
正福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「青梅市史」