大塚天祖神社|領主豊島景村が創建、旧十羅刹女神、巣鴨村総鎮守
大塚天祖神社の概要
大塚天祖神社は、豊島区大塚にある天祖神社です。大塚天祖神社は、元亨年間に当地の領主豊島景村が創建したと伝えられます。江戸期に配祀していた十羅刹女神は巣鴨村総鎮守として祀られていましたが、神仏分離により十羅刹女神を分離(現在東福寺に安置)、天祖神社と改称しています。
社号 | 天祖神社 |
---|---|
祭神 | 天照皇大御神 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社、厳島神社、菅原神社、三峯神社、榛名神社、熊野神社 |
住所 | 豊島区南大塚3-49-1 |
祭日 | - |
備考 | 巣鴨村総鎮守 |
大塚天祖神社の由緒
大塚天祖神社は、元亨年間に当地の領主豊島景村が創建したと伝えられます。江戸期に配祀していた十羅刹女神は巣鴨村総鎮守として祀られていましたが、神仏分離により十羅刹女神を分離(現在東福寺に安置)、天祖神社と改称しています。
豊島区教育委員会掲示による大塚天祖神社の由緒
天祖神社は今からおよそ六百数十年前、即ち元亨年間、当時武蔵国豊島郡の領主であり、豊島氏中興の祖といわれた景村のとき、巣鴨鎮護の神として祀られた、と伝えられている。
江戸時代、鬼子母神の信仰が旺んになり一時十羅刹女神を併せ祀ったこともあるが、明治になって分離された。当神社は神明宮ともまた神明社ともいわれていたが、明治5年、ご祭神の伊勢の皇大神宮が、天津御祖の大神であるところから、天祖神社と改称され今日に至っている。
旧暦の神嘗祭(伊勢の三大祭の一つ)にあたり祭儀が古くから巌修され、毎月七日、十七日、二十七日は通称縁日として昔から門前市をなす賑わいを呈している。
天明年間改築された旧社殿は昭和のご大典記念事業として昭和8年に造営され壮麗を極めたものである。その後第二次大戦も終りに近い昭和20年4月の大空襲によってその一切が烏有に帰した。その際境内にあった樹齢五百年を数えるご神木夫婦銀杏も戦火を被り、近年ようやく芽吹いて繁茂するようになったものである。
昭和25年復興奉賛会が結成され同年ひとまず拝殿が造営された。その後区画整理がはじまり造営は一時中断され、境内も三分の一に縮小されることとなった。三十八年にいたって区画整理が完了をみたので氏子・崇敬者の協賛を得て造営工事に着手することとなり、昭和39年8月、改めて復興奉賛会を結成して翌40年8月起工し、ご本殿の造営、幣拝殿の修復、社務所並びに参集所の建設及び一連の附属設備工事を完了し、昭和43年9月、明治維新百年の意義ある年にあたり、造営竣工奉祝臨時大祭を執り行いここにようやく境内輪億の美をみるに至ったものである。(豊島区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による大塚天祖神社の由緒
(巣鴨村)福蔵寺<東福寺に合寺>
同宗同村(新義真言宗、田端村)東覺寺門徒瑠璃山薬王院と號す、本尊薬師。
十羅刹社。鬼子母神を合祀す、村内の鎮守とせり。
弁財天社。稲荷社二〇。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による大塚天祖神社の由緒
天祖神社
元亨年間(一三三一-四)、武蔵国豊島郡の領主であり、豊島氏中興の祖といわれた景村のとき、巣鴨鎮護の神として祀られたと伝えられている。江戸時代鬼子母神信仰が盛んになり、一時十羅刹女神とあわせ祀ったこともあるが、明治になって分離された。当神社は神明宮とも、また神明社ともいわれていたが、明治五年御祭神の伊勢の皇大神宮が天津御祖の大神であるところから、天祖神社と改称され、今日に至っている。(東京都神社名鑑より)
大塚天祖神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑