巣鴨の庚申塚|豊島区巣鴨の史跡

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巣鴨の庚申塚|猿田彦大神を祀る巣鴨庚申堂

巣鴨の庚申塚の概要

巣鴨の庚申塚は、豊島区巣鴨にある名所史跡です。巣鴨の庚申塚は、猿田彦大神を祭神とする庚申塔を奉安するお堂で、現庚申堂は昭和51年の再建だそうです。当地の庚申塔は、かつて祀られていた文亀2年(1502)銘の八尺ほどの庚申塔を地中に埋め、明暦の大火(1657)後に造られた石塔だといいます。庚申塔は各地至る所に祀られていますが、巣鴨の庚申塔は、旧巣鴨町と板橋宿を結ぶ間に位置し、立場(休憩所)として茶屋が設けられていたことから、場所を指す地名(小名・小字)にまで発展したのでしょう。

巣鴨の庚申塚
巣鴨の庚申塚の概要
名所旧跡名 巣鴨の庚申塚
みどころ -
入場時間 -
入場料 無料
住所 豊島区巣鴨4-35
備考 -



巣鴨の庚申塚について

巣鴨の庚申塚は、猿田彦大神を祭神とする庚申塔を奉安するお堂で、現庚申堂は昭和51年の再建だそうです。当地の庚申塔は、かつて祀られていた文亀2年(1502)銘の八尺ほどの庚申塔を地中に埋め、明暦の大火(1657)後に造られた石塔だといいます。庚申塔は各地至る所に祀られていますが、巣鴨の庚申塔は、旧巣鴨町と板橋宿を結ぶ間に位置し、立場(休憩所)として茶屋が設けられていたことから、場所を指す地名(小名・小字)にまで発展したのでしょう。

境内掲示による巣鴨の庚申塚の沿革

庚申塚
庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、六〇日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。
こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
さて、江戸時代の文化年間(一八〇四~一七)に出された地誌「遊歴雑記」によると、祠内に納められている庚申塔は明暦三年(一六五七)一月の江戸の大火後に造られ、その際文亀二年(一五〇二)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。
この庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(一八三〇~四三)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人が跡を絶たない。(東京都豊島区教育委員会掲示より)

「北豊島郡誌」による巣鴨の庚申塚の沿革

(名勝及舊蹟)
庚申塚
庚申塚は今や全く地名となり巣鴨町の大字たり、即ち巣鴨四丁目の末より千川上水渠に至る間をいふ、四丁目の末北側少しく入りたる高地に庚申堂あり、石階十六級の上左右に石猿を安ず、盥石には慶應三丁卯年八月とあり、堂は南に面し内に六尺許の庚申石塔を鎮す。
明暦二□
奉造立石塔一基庚申現當三世□□
三月吉祥日
刻する所此の如し、明暦年間に建し庚申塚は各地に在り、然るに此庚申塚のみ獨り地名となりしは何ぞや、此處もと茶屋數軒ありて、中山道の建場即ち旅人の休憩場たりしに因れりといふ。(「北豊島郡誌」より)


巣鴨の庚申塚の周辺図