橘樹神社|横浜市保土ケ谷区天王町の神社

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橘樹神社|旧称牛頭天王社、天王町の由来

橘樹神社の概要

橘樹神社は、横浜市保土ケ谷区天王町にある神社です。橘樹神社は、かつて牛頭天王社と称し、当地名天王町の由来ともなった神社で、文治2年(1186)に、京都祇園八坂神社を勧請して創建したといわれます。佛向村にあった内宝寺が戦乱で破却、寺宝が帷子川に流れていたのを、当地の百姓が拾い上げ、神体としたと伝えられ、また、西久保安楽寺には、かつて当社が鎮座していたともいいます。明治6年村社に列格、大正五年十月神饌幣帛料供進神社に指定、大正10年に橘樹神社と改称、第二次世界大戦後、隣接していた神明社を境内社としました。

橘樹神社
橘樹神社の概要
社号 橘樹神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 神明社
住所 横浜市保土ケ谷区天王町1-8-12
祭日 夏祭:6月15日に近い土曜日
備考 -



橘樹神社の由緒

橘樹神社は、かつて牛頭天王社と称し、当地名天王町の由来ともなった神社で、文治2年(1186)に、京都祇園八坂神社を勧請して創建したといわれます。佛向村にあった内宝寺が戦乱で破却、寺宝が帷子川に流れていたのを、当地の百姓が拾い上げ、神体としたと伝えられ、また、西久保安楽寺には、かつて当社が鎮座していたともいいます。明治6年村社に列格、大正五年十月神饌幣帛料供進神社に指定、大正10年に橘樹神社と改称、第二次世界大戦後、隣接していた神明社を境内社としました。

新編武蔵風土記稿による橘樹神社の由緒

牛頭天王社
帷子川の邊縄手にて江戸の方より宿へ入る所の右にあり。相傳ふ当社の神体はもと佛向村の内宝寺と号する寺にありしものなりしが、戦争の間破却せられし頃、此神体帷子川へ入て流れ来きたりしを、其の邊の百姓等三人にて取あげ、今の所へ社を造りまつれりと、此によりて今も社修造の後遷坐のたびごとに、彼三人の子孫進退せりと云、本社七尺四方、東に向ふ、神体秘物なればとて後へそむけて坐せり。故に祈願の事ある者は社の後の方へ廻りて拝すと云。拝殿は3間に2間これも東向なり、例祭六月十五日なり、村内遍照寺持。
末社五坐相殿社。本社の左の方にあり、山王權現天神三寶荒神第六天藏王權現の五社なり、小祠。
四坐相殿社。本社の右の方にあり、御嶽權現稲荷八八幡宮宮辧財天の四坐を合祀せり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川県神社誌」による橘樹神社の由緒

文治二年(一一八六)九月、源頼朝天下平定を賀し、子孫繁栄を祈願して、京都祇園社の御分霊を勧請、祭祀の典を行ったのを当社の創祀とする。故に往古は祇園社と称した。永正七年の兵戦、文政八年の火災に旧記を焼失したが、近世に於いては牛頭天王社とも称していた。文政十三年代官名主等協議し、本殿、幣殿、拝殿等を再建し、明治天皇東京遷都の際は、当境内を最も浄地と定められ、内侍所が奉安された。
明治六年村社に列格、大正五年十月神饌幣帛料供進神社に指定され、同十年には社号を橘樹神社と改めたが、同十二年関東大震災の折は本殿の他悉くを倒壊した。
昭和五年九月、幣殿、拝殿、神楽殿等の復興を遂げたが、同二十年四月の大空襲には再び全焼した。然し氏子崇敬者の熟誠奉仕により、同二十六年社殿、以後順次神楽殿、社務所を完成し現在に至っている。
[社伝]「後向きの天王様」神体の正面に向えば、不思議な事に神像から光がさして拝む事が出来ず、強いて拝もうとすればその光に打倒されてしまう程の神様であったから、神助神罰は覿面であった。正面から拝めないのなら後向きに安置しようという事で、遂に類のない後向きの安置となった。それ以後は祈念する時には、宮の後方に廻って真正面から拝むつもりで詣でるという土俗が起り、古老の間に伝えられている。(「神奈川県神社誌」より)

保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようによる橘樹神社の由緒

創建は鎌倉時代初期(1186年)。江戸時代は牛頭天王社といい天王町の由来である。大正時代に現在の橘樹神社となった。祭神は素盞嗚尊。本殿の裏手には横浜市内最古といわれる寛文9年(1669)の銘が刻まれた青面金剛庚申塔がある。(保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようより)


境内社となった神明社について

神明宮 牛頭天王社にならびてあり、江戸の方より宿へ入る所の右側、33間程入てあり、其社地は帷子町に屬す、小祠なり、前に鳥居を立。
勧請の年代詳ならず、村内香象院持。(新編武蔵風土記稿より)

橘樹神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川県神社誌」