大聖院。横浜市磯子区東町にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

根岸山大聖院。横浜觀音三十三観世音霊場、横浜弘法大師二十一箇所

大聖院の概要

高野山真言宗寺院の大聖院は、根岸山覺王寺と号します。大聖院は、智堯阿闍梨が天文5年(1536)に開創、第十四世辨融が中興したといいます。東国八十八ヵ所霊場47番、横浜觀音三十三観世音霊場21番、横浜弘法大師二十一箇所15番です。

大聖院
大聖院の概要
山号 根岸山
院号 大聖院
寺号 覺王寺
住所 横浜市磯子区東町6-20
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大聖院の縁起

大聖院は、智堯阿闍梨が天文5年(1536)に開創、第十四世辨融が中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による根岸山大聖院の縁起

(根岸村)大聖院
除地、一段二畝、村の艮にあり、同宗同末(古義眞言宗、石川寶生寺末)にて根岸山と號す、天文五年の起立と云、開山の僧詳ならず、本堂は七間に五間半、本尊三尊の弥陀立像にて長三尺五寸、安弥陀の作なり。
寺寳
不動画像一幅。智證大師の筆と云。
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観音堂
除地、一畝六歩、村の申酉の方にあり、堂は四間半に六間半、大聖院の持。 (新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による大聖院の縁起

寶積寺
位置
大聖院は、根岸山覺王寺と號し、磯子區根岸町字芝生二千百七十番地にある。境内は二百七十坪。官有地。高野山金剛峯寺の直末で、寺格は十二等、市内觀音三十三所の二十一番の札所、同弘法大師二十一箇所の十五番の靈場である。
沿革
天文五年に智堯阿闍梨が開創した所である。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、寶生寺の末と載せてある。寛文十年に、第十三世淸山法師が本尊の臺座・後光・厨子、竝に觀音・勢至の兩脇侍を造立した。第十四世辨融は、本堂の再建を遂げたので、中興と仰がれてゐる。天保十三年以後、無住であつたので、其間は磯子村金藏院で寺役竝に法用を務めた。維新前までは、白山權現社・山王權現社・諏訪明神社の別當を兼ね、叉、觀音堂を進退して居た。明治三年の頃は、引越村の定光寺を兼帶した。明治七年、元町增德院に轉屬して、大正六年十一月一日、觀音堂を合併し、大正十五年六月二十九日に、高野山金剛峯寺の直末となった。
附記。觀音堂は、延享二年の書上に「壹畝六歩御除地、大聖院抱」と見え、風土記には「除地一畝六歩、村の申酉の方にある。堂は四間牛に六間牛、大聖院持。」とあり、明治十二年九月の明細帳には「間口五間、奥行四間、敷地百三十五坪。」と載せてあるのがこれである。
本尊
本尊は阿彌陀如來の立像、高二尺六寸、臺座共五尺二寸。傅に安阿彌作である。脇、侍は觀音菩薩・勢至苦薩、寛文十年の造立で叉、脇本尊は如意輸觀音・弘法大師である。
附言。元、智證大師の筆と傳へる不動の畫像が有つたが、今はこれを失うた。現住院主の說に據ると、當院が大聖を號とするのは、本來が不動明王を本尊としたものであらうとのことである。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


根岸山の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿