明王山宝積寺。横浜磯子七福神の恵比寿、東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場、横浜弘法大師二十一箇所
宝積寺の概要
高野山真言宗寺院の宝積寺は、明王山不動院と号します。宝積寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代に創建、明治維新までは根岸村の緒神社の別当を兼帯していたといいます。東国八十八ヵ所霊場52番、横浜觀音三十三観世音霊場26番、横浜弘法大師二十一箇所13番、横浜磯子七福神の恵比寿です。
山号 | 明王山 |
---|---|
院号 | 不動院 |
寺号 | 宝積寺 |
住所 | 横浜市磯子区上町9-31 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝積寺の縁起
宝積寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代に創建、明治維新までは根岸村の緒神社の別当を兼帯していたといいます。
新編武蔵風土記稿による宝積寺の縁起
(根岸村)寳積寺
除地、二段、村の北にあり、古義眞言宗、石川寶生寺末、明王山不動院と號す、本堂六間に五間、開山の年代を傳へず、永正元年時の住僧中興し、其後永禄年中賴順と云僧、再び中興すと云、本尊不動の立像長二尺餘、智證大師の作なり。
太子堂。四間に二間の堂にて、門前にあり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による宝積寺の縁起
寶積寺
位置
寶積寺は、明王山不動院と號し、磯子區根岸町字上四百十八番地にある。境内は六百四十坪。大本山、金剛峯寺の直末で、寺格は十二等、市内觀音三十三所の第二十六番同弘法大師二十一箇所の第十三番の靈場である。
沿革
鎌倉時代の創立で、寺號は寶積經に因んで名づけられたと云ふ。開基及び年紀は不詳。永正元年甲子中興し、永祿年中、僧賴順が再興したと傳ヘてゐる。
寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、石川寶生寺末、除地。と載せてある。當時は同寺門徒中、古跡坊上通に列し、本寺本山の代理を勤むる格式を備へてゐたと云ふ。明治維新當時までは、鎭守八幡宮・王子權現社・社護子社・稻荷社・第六天社・白山社・御嶽權現社の別當を兼帶してゐた。又、境内に、太子堂もあつたが、其後廢絶した。明治三年、白瀧不動堂を再興して、當寺の境外佛堂とした。明治七年、元町增德院に轉屬し、大正十五年六月二十九日、更に大本山の直末となつた。
本尊
本尊は不動明王兩劍の不動といふ。の立像。高二尺餘、智證大師の作と云はれてゐる。
堂宇
現今の堂宇は、本堂(桁行六間半、梁間五間半、四注造、草葺。)・庫裡(桁行六間、梁間五間、四注造、亞草葺。)・玄關(二間,一間半、亞沿葺。)・表門(瓦葺。)等である。
境内佛堂
藥師堂。(桁行二間、梁間二間半、草葺。)本尊は藥師如來、行基作、市内七藥師の一と稱ふ。延享二年、根岸領書上に、除地二畝十二歩、寶積寺抱と見え、新編武藏風土記に、見捨地、村の北にあり寶積寺持。堂は六間に三間と載せ、明治三年の明細帳には、藥師堂一箇所、寺中に有と記し、同十二年の明細帳には境内佛堂一字藥師堂、建物間口三間、奥行二間と掲げてある。
境外佛堂
白瀧不動堂は同所字、瀧ノ上に在る。本尊は不動明王木造立像、長一尺一寸で、境内の懸崖の中段にあった井の中から出現したとも、或は加州の大岩不動尊と同木同作のものであるとも傳へるが、文祿年中に、草堂を建立して、元祿三年に神體を造立し、其本地佛の腹籠として、小社を建てゝ安置し、鄕中の鎭守としたと言ふ。享和二年に再建の當時は、八幡宮と年番に祭禮を行つた。元、當寺の進退する所であつたが、文政・天保の頃に、一旦は海照寺の持となり、明治三年、常寺の住持、亮全が中興してから、爾後再び當寺の境外佛堂となつた。此堂宇は外陣、入母屋造、四間に二間半。内陣、角屋二間四方、亞鉛葺。大正十四年八月の造立である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
宝積寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿