宝樹院。横浜市金沢区大道にある真言宗御室派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

高栄山宝樹院。金沢三十四所観音霊場

宝樹院の概要

真言宗御室派寺院の宝樹院は、高栄山高照寺と号します。宝樹院の創建年代等は不詳ながら、慶安3年(1650年)火災により焼失、三艘の谷戸(海沿い)から当地へ移転し、永叫(万治元年1658年寂)が中興したといいます。当地がけ下には足利持氏の祈願所ともなっていた常福寺がありましたが、明治34年当寺へ移され、その阿弥陀三尊像は神奈川県重要文化財に指定されています。金沢三十四所観音霊場15番です。

宝樹院
宝樹院の概要
山号 高栄山
院号 宝樹院
寺号 高照寺
住所 横浜市金沢区大道2-7-1
宗派 真言宗御室派
葬儀・墓地 -
備考 -



宝樹院の縁起

宝樹院の創建年代等は不詳ながら、慶安3年(1650年)火災により焼失、三艘の谷戸(海沿い)から当地へ移転し、永叫(万治元年1658年寂)が中興したといいます。当地がけ下には足利持氏の祈願所ともなっていた常福寺がありましたが、明治34年当寺へ移され、その阿弥陀三尊像は神奈川県重要文化財に指定されています。

新編武蔵風土記稿による宝樹院の縁起

(社家分村)
小名大道
西の方寺分にあり、寺前村稱名寺所蔵應永永享等の文書に、六浦庄大道關事云々とあり、これ當所に關を居て其關錢を以て彼寺に寄附せしなるべし、文書の全文稱名寺の條に出す並見るべし、
小名三艘
南の方なり、往古唐船三艘来船せるより斯名付といへり、其時載せ来りしとて一切經青磁の花瓶香爐等今に稱名寺にあり、名所和歌物語に越後守實時より顯時貞顯まで父子三代の間相續きて唐船三艘爰に着岸せしこと見えたり、今に當所の猫は當時舶来猫の子胤なりとて、土地にても金澤猫と呼て珍重す、自餘古昔舶来の猫は背を撫れば背を低伏す、金澤の種は撫るほど背を擡るを異とすと云
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寶樹院
境内年貢地、小名大道にあり、古義眞言宗州崎村龍源寺末、高榮山高照寺と號す、本堂六間半に五間半東向、本尊大日長四尺餘、春日作開山詳ならず、中興の僧永叫萬治元年五月十八日寂せり、
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常福寺
境内年貢地、同所に在、眞言律宗金澤稱名寺末、大道山と號す、足利持氏の祈願所にて古は、寺分の地一圓に當寺領なりしと云、金澤稱名寺に藏する應永廿九年の文書に、六浦庄の内常福寺云々とあれば古刹なることは論なし、又【北條役帳】に六浦大道分とあるは則當寺の領せし所を云なるべし、後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿彌陀免として鹽六斛づつを寄附せるのみなり、本堂三間四方東向、金澤札所第十五番と云、本尊彌陀を安す、座身長三尺許行基作、脇士觀音勢至共に長三尺許、開山審覺永和三年八月十五日寂す、
辨天社 本堂の後にあり、小社(新編武蔵風土記稿より)


宝樹院所蔵の文化財

  • 阿弥陀三尊像(神奈川県指定重要文化財)

阿弥陀三尊像

宝樹院は、高栄山高照寺と称す真言宗の寺院で寺伝によると、古くは三艘の谷戸にあったが火災にあい、慶安3年(1650)大道の現在地に移ったといいます。「新編武蔵風土記稿」には「開山詳かならず、中興の僧永叫は萬治元年(1658)寂」とあります。本尊は大日如来像です。
阿弥陀堂に祀られている阿弥陀三尊像は、崖下にあった常福寺の本尊でした。常福寺は、足利持氏の祈願所とされた寺で、大道一帯が領地でした。応永29年(1422)の金沢文庫文書の中に称名寺造営の費用にあてるため、門前に関所を設け通行税をとったことが記載されています。江戸時代になると寺運は衰えてしまい、明治時代には管理を宝樹院に任せていました。
平成3年阿弥陀三尊像の修理が行われ、三尊の頭部内から多くの納入品が発見されました。これらは称名寺初代住持審海とその周辺の人物たちにより弘安5年(1282)に納入されたもので、審海自筆の修理願文により、三尊が久安3年(1147)に建立された常福寺二間四面堂の本尊であったことが判明しました。
三尊は、中央に阿弥陀如来坐像、その両脇に観音菩薩・勢至菩薩の立像が立つ。造立当初は三尊とも檜材の一木造でありましたが、弘安5年の修理の際に面部が前後に割られ、玉眼が嵌め入まれるなど、多少改変の手が加わっています。
中尊の丸みを帯びた強い肩、やや痩せ気味の肉どり、小さくきれに並んだ螺髪、浅く流れるようにあ衣文の線などには平安末期の造像の特色が窺えます。両脇侍像にも平安彫刻らしい特色が示されています。(横浜市教育委員会文化財課・横浜国際観光協会掲示より)

宝樹院の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵国風土記稿