太寧寺。横浜市金沢区片吹にある臨済宗建長寺派寺院

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海藏山太寧寺。源範頼の墓

太寧寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の太寧寺は、海藏山と号します。太寧寺は、源頼朝に謀反の疑いをかけられ、当寺に落ち延びて自害した源範頼を開基(太寧寺殿道悟大禅定門)とし、当初は真言宗寺院だったといいます。その後、臨済宗の開祖榮西明菴(建保3年1215年寂)を開山として臨済宗寺院に改めたといいます。昭和15年に当地へ移転しています。当寺の本尊薬師如来像は「へそ薬師」として著名で、脇侍日光・月光菩薩立像と共に横浜市有形文化財に指定されています。金沢三十四所観音霊場13番です。

太寧寺
太寧寺の概要
山号 海藏山
院号 -
寺号 太寧寺
住所 横浜市金沢区片吹61-5
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



太寧寺の縁起

太寧寺は、源頼朝に謀反の疑いをかけられ、当寺に落ち延びて自害した源範頼を開基(太寧寺殿道悟大禅定門)とし、当初は真言宗寺院だったといいます。その後、臨済宗の開祖榮西明菴(建保3年1215年寂)を開山として臨済宗寺院に改めたといいます。昭和15年に追浜飛行場拡張工事のため、源範頼の墓と共に瀬ケ崎から当地へ移転しています。

新編武蔵風土記稿による太寧寺の縁起

(社家分村)
大寧寺
境内除地二畝、小名瀬ヶ崎にあり、禪宗臨濟派鎌倉建長寺末、古は藥師寺と號し眞言宗なりしが、何の頃か改宗せりと云、海藏山と號す、本堂二間四方北向、本尊藥師立身長五尺許、へそ藥師と云、十二神共に運慶作、【鎌倉志】に當寺勸進帳を引て云昔伏見帝永仁年中此村に貧女あり父母の忌日にあたれども家貧うして佛に供養すべきやうなし、常に絲をくりへそとして是をうりて父母忌日の佛餉に備へんとおもふ、然れどもたやすく買人なし、或時童子一人來てこれを買ふ、其價を以て父母忌日の供養を勤む、不思議のおもひをなせし所に、此藥師の前に其へそ多くあり、始て知ぬ如來貧女純孝の志を感じて然ることを、しかりしより以來へそ藥師と云と、開山は千光國師なり、【元亨釋書】云、國師名は榮西明菴と號す、備の中洲の人、其先賀陽氏、薩州刺吏貞政の曾孫なり、永治元年四月二十日生れ建保元年七月五日寂云云、開基は三河守源範頼にて、【鎌倉志】範頼菩提寺也と云、大寧寺殿道悟大禪定門と法諡す、相傳ふ建久四年浦冠者範頼伊豆國修善寺に於て打死と稱し、ひそかに遁れて相州浦郷村に蟄居せしが、いつまで斯てあるべきにもあらず、北向の寺に行て自殺せんとて、農民平次左衛門及今一人某に命じて舟に乘り、當寺に至りて終に生害に及べり、其時彼二人に苗字(其唱詳ならず)興へし由、今も浦郷村に其子孫ありと云のみ、此説あへて信ずべきにあらざれど、姑く傳のまゝを載す、猶下に載する範頼墓の條井せ見るべし、
寺寶 三河守範頼畫像一幅 束帯の像にて遊素齋と云者の筆なり、讃あり、其文左に載す、三河守範頼公、建久四年八月故有て武州六浦庄金澤瀬ケ崎海藏山大寧寺にてうせたまいひぬ、名のみ殘りて皆人悲しみ今に絶る事なし、爰に杉若氏景秀道に心よせし人なれば、此寺に詣來てふりにし蹟を尋ね侍るに、墳墓は苔にうずもれて其所とも見えず、彌涙を催し思ひ捨がたくて、畫像を納め奉るとて予に發句を請はへりぬ、誠に哀れめてゝ愚なる志を起し、尊靈の手向草とならざらめかも、遠世も殘る御影や秋の月、玄祥法橋、按に、是によれば此像は杉若景秀なる者の納めし也、此遊素齋と云るは則景秀が事にや、又別人なりや詳ならず、
和歌一軸 古人の和歌を範頼の書せしものなり、
長刀一振 範頼の所持なり、無銘にて直燒刃なり、長一尺四寸黒漆塗の箱に納む、その蓋の銘に、親頼嘗祇役、其歸也過相瀬崎、詣大寧寺、此所葬吾大祖範頼之地也、因謁範頼神位曁畫像、而歴年悠久矣、装飾頗壞深患之、面中途匆々不遑脩焉、茲文化庚午之夏、遣家人黒田頼久脩之遂其志焉、範頼二十一世之嫡子、吉見就親屬、長門公准公族、稱毛利、親頼其七世之 孫也、聊追遠致才衷以記其事爾、長門毛利親頼謹識、
御幣杉 本堂の後の山にあり、高三丈餘、中ほどより次第に枯葉の如くなり、白色を帯び遠く眺めは御弊の如くみゆ、よりて名付と云、此杉の前に太神宮の小宮あり、
範頼墳 山の中腹にあり、高三尺許の五輪の石塔立り、文字もありしならん、年を歴てみえず、前に云如く頼範當所にて自害すと云は固より信ずべからず、【異本盛衰記】に據に、範頼伊豆國修善寺にありけるを、梶原景時父子五百餘騎にて押寄ければ、範頼みづから矢を發て防戰し、終に坊に火を放て自害す、景時範頼の燒首を取て鎌倉に歸り、頼朝に献せしと見ゆ、且修善寺に其墓あれば遺骨を葬りしは彼寺なること論なし、但首を鎌倉にて實檢の後、當寺に送り葬りしにや、又頼範に因みあるもの遙拜の爲に建しもしるべからず、足立郡石戸宿村にも範頼の墓あり(新編武蔵風土記稿より)


太寧寺所蔵の文化財

  • 伝源範頼の墓
  • 木造薬師如来立像
  • 木造日光・月光菩薩立像(横浜市指定有形文化財)

伝源範頼の墓

鎌倉初期の武将源範頼は、源義朝の六男で、源頼朝の弟です。範頼は義経と同様に兄頼朝に疑われ、伊豆修善寺に幽閉され、梶原景時らの討手を受け最期を遂げたことになっていますが、太寧寺の寺伝では鉈切まで逃れて、海に向いて建つ太寧寺へ入って自害したとされています。
太寧寺は、はじめ瀬ヶ崎一七二番地(現、関東学院大学付属小学校々地内)にありましたが、昭和十八年、追浜飛行場拡張工事のため、現在地に移転し、裏山にあった伝源範頼の墓も、これに伴い移りました。
また、太寧寺の名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」から付けられたもので、同寺には、範頼公の位牌や画像などが寺宝として遺されています。(横浜市教育委員会掲示より)

木造薬師如来立像

太寧寺の本尊で、日光・月光菩薩像とともに安置されています。桧の寄木造り漆箔の像で、張りの強い、やや厳しい表情の量感のある体型、簡略ながら写実的な事もの表現などに鎌倉時代の作風が見られます。像は、縄状の頭髪を持つことや衣を両肩にまとうことが通例の薬師如来像と異なる点として注目されます。この様な形態像の例としては、奈良県伝香寺地蔵菩薩像納入品の薬師如来坐像(安貞二年一二二八)に見られ、これらは京都府清凉寺釈迦如来像の頭髪や衣の形式を取り入れて、生身の仏としての性格を像に与えようとしたものと考えられます。なお、本像の伝来としまして「新編鎌倉志」「新編武蔵風土記稿」には、両親の供養に勤める少女を救った由来が記載され、像を「へそ薬師」として呼称しています。(横浜市教育委員会掲示より)

木造日光・月光菩薩立像

本尊薬師如来立像の左右の脇侍として安置されています。両像ともに、桧の寄木造り漆箔・玉眼の像で、その形状は、髪を毛筋彫りで高く(高髻)結い、両耳にも髪が飾られ(鬢髪)ています。肩からは条帛・天衣と呼ぶショールのような衣をまとい、腰には裙と呼ぶ布や腰帯をたるませて巻いています。日光菩薩像は、左手は肘を軽く曲げて垂らし、右手はまげて前へ出して、腰をわずかに左に捻りながら両脚を少し開いて立っています。月光菩薩像は、反対に日あり手を曲げ、右手を垂らして両脚を少し開いて立っています。
なお、本像が脇侍する本尊の薬師如来像とは、高さの点で釣り合いが取れず、作風の上でも相違点が多く見られることから、同時の作とは認めがたい像です。(横浜市教育委員会掲示より)

太寧寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵国風土記稿

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