東光寺。蒲冠者源範頼が建立、石戸蒲ザクラ
東光寺の概要
時宗寺院の東光寺は、西亀山無量院と号します。東光寺の創建年代等は不詳ながら、蒲冠者源範頼が石戸鄕に配流された際、息女亀御前が正治元年(1199)逝去、その追福のために当寺を創建したとも、或いは石戸氏の娘の追福のために創建したともいいます。また一説によると、当地は吉見氏の所領だったこともあり、源範頼の子息阿闍梨範國(吉見氏)の対幅のために創建したのではないかともいいます。当寺には貞永2年(1233)銘をはじめとして数多くの板石塔婆が残されている他、境内の石戸蒲ザクラは、源範頼が石戸に来た時についてきた杖が根づいたのがこの桜だともいい、数多くの伝承を有しています。
山号 | 西亀山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 東光寺 |
住所 | 北本市石戸宿3-119 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東光寺の縁起
東光寺の創建年代等は不詳ながら、蒲冠者源範頼が石戸鄕に配流された際、息女亀御前が正治元年(1199)逝去、その追福のために当寺を創建したとも、或いは石戸氏の娘の追福のために創建したともいいます。また一説によると、当地は吉見氏の所領だったこともあり、源範頼の子息阿闍梨範國(吉見氏)の追福のために創建したのではないかともいいます。当寺には貞永2年(1233)銘をはじめとして数多くの板石塔婆が残されている他、境内の石戸蒲ザクラは、源範頼が石戸に来た時についてきた杖が根づいたのがこの桜だともいい、数多くの伝承を有しています。
新編武蔵風土記稿による東光寺の縁起
(石戸宿村)
阿彌陀堂
小名堀ノ内にあり、相傳へて此地蒲冠者範賴の住の地とも、又石戸左衛門尉の居跡なりともいへり、縁起の略云源範賴故ありて當國石戸郷に配流せられ、土俗これを石戸殿と稱せり、然るに其息女龜御前病に罹りて、正治元年七月十二日卒しければ、黄葉妙秋大姉と謚し、追福のために法譽和尚を請して一宇を創建し、西龜山無量院東向寺と呼ぶ、則此堂なりと、されど此縁起は寛政年中好古者のしるせしもににて、もとより據とすべきことなし、又高尾村泉蔵院も西龜山無量院と號し、石戸氏の女の追福の爲に創せし寺なる由いへば、とにかく故あることと見えたれど、其詳なること今よりは考ふべからず、彌陀は坐像六寸、行基の作なり(中略)。
五輪塔。老櫻の樹下にあり、臺石もなく文字も漫滅して讀得ず、土人の傳へに蒲冠者範頼正治二年二月五日、此地に於て自畫せし印の塔なり、法名嚴大居士と號すと、又云さにはあらず、石戸左衛門尉の印なりと、按に範賴の葬地は久良岐郡六浦太寧寺にあり、法名太寧寺殿道悟大禅定門建久四年八月生害ありし由をいひ、【東鑑】建久四年八月十七日の條に参河守範頼朝臣伊豆國に下向せらる、狩野介宗茂・宇佐美三郎祐茂等預かり守護する所なり、歸参其期有べからず、偏に配流の如何云々と載たれば、當所を範頼が葬地と云は妄誕なること勿論なり、されど【吉見系圖】に範頼の男阿闍梨範國當國に居し事見ゆ、元より吉見氏は横見郡吉見に住せし人なるべければ、此邊も彼吉見氏の所領にして、後年子孫のもの彼が追福の爲に建し塔なるも知るべからず、又石戸左衛門の碑なると云は、地名に依てもさもあるべく聞えたり、何れ故ある墓なるべきなり。
櫻樹。堂に向て右にあり、高さ三丈餘、枝さし覆へる、径り凡十五間餘、白花にして單辨なり、根の盤りたる處に、貞永・弘安・永正・文應等の古碑及文字も讀得ざる、斷碑五六基狭入れり、其様樹根より生ひ出たる如し、相傳ふ範頼此地に住せしときに、手自から植し樹なれば蒲櫻と號せりと、されど範頼此地に住せしこと疑ふべきは前に辨せし如くなれば、全く事を好むものの云始たる説なるべし、さはあれ珍らしき老櫻なり。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による東光寺の縁起
東光寺の文化財
東光寺は川越市東明寺(時宗)の末寺で、西亀山無量院東向寺とも号し、伝説によると蒲冠者源範頼の開基といわれている。
境内には、国指定天然記念物「石戸蒲ザクラ」をはじめ、県指定考古資料「板石塔婆」や、市指定彫刻「銅造阿弥陀如来坐像」など多数の文化財が所在している。また、寺域及び周辺地域は鎌倉時代の館跡であることが知られている。(埼玉県教育委員会・北本市教育委員会掲示より)
東光寺所蔵の文化財
- 石戸蒲ザクラ(国指定天然記念物)
- 板石塔婆・東光寺板石塔婆群(北本市指定文化財)
石戸蒲ザクラ
「石戸蒲ザクラ」は、福島県三春の滝桜・山梨県山高の神代桜・静岡県狩宿の下馬桜・岐阜県根尾谷の淡墨桜と共に、日本五大桜に数えられる名木である。
「蒲ザクラ」の名称は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟蒲冠者源範頼の伝説による。一説には、範頼が石戸に来た時についてきた杖が根づいたのがこの桜で、蒲冠者の名にちなんで「蒲ザクラ」と名付けられたという。
天然記念物に指定された当時は四本の大きな幹に分かれ、根元の周囲は十一メートルもあったと記録されている。現在開花する幹は老木の株分けで、いわば二代目「蒲ザクラ」である。品種はエドヒガンザクラとヤマザクラの交配種とされ、四月上旬に開花する。(埼玉県教育委員会・北本市教育委員会掲示より)
板石塔婆・東光寺板石塔婆群
板石塔婆は、板碑・青石塔婆とも呼ばれ、鎌倉時代から室町時代末期にかけて多数つくられた供養塔である。東光寺には二十二基の板石塔婆があり、かつては蒲ザクラの周囲に立てられていた。
県指定の「板石塔婆」は、貞永二年(一二三三)の銘をもち、全国第四位の古さである。
表面上部に梵字で阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)を配し、その下部に「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨」の偈(仏の功徳をたたえる詩)が刻まれ、周囲には円と半円の装飾が刻まれている。国の認定重要美術品である。
この他にも寛元四年(一二四六)銘や建長三年(一二五一)銘等の比較的古いものが多く、当市の歴史を知る資料として貴重である。
これらは一括して「東光寺板石塔婆群」として指定し、現在は市教育委員会で管理・公開している。(埼玉県教育委員会・北本市教育委員会掲示より)
東光寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」