上行寺。横浜市金沢区六浦にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

六浦山上行寺。日蓮聖人と富木五郎胤継とが船中問答、称名寺の仁王尊を譲り受けた妙法坊

上行寺の概要

日蓮宗寺院の上行寺は、六浦山と号します。上行寺の創建年代などは不詳ながら、真言律宗金勝寺と称し、後に居館を中山法華経寺とした富木五郎胤継の武運長久の祈願所だったといいます。建長6年(1254)、富木五郎胤継が鎌倉幕府へ参勤の折、日蓮聖人と同船(船中問答)、富木五郎胤継は日蓮聖人を当寺普識法印に引き合わせた結果、当時を日蓮宗に改めたといいます。その後荒尾城主荒井平次郎光吉が当寺で修行を積んでいたところ、中山法華経寺(富木公邸跡)第三世浄行院日祐上人が当地を巡行、当寺を上行寺と改めて開山、荒井平次郎光吉に妙法坊と授戒したといいます。妙法坊は真言律宗別格本山称名寺より仁王尊より譲り受けて身延山に奉納、身延山より日荷上人(文和2年1353年寂)と法号を授けられ、身延山より榧の霊木を持ち帰ったといいます。

上行寺
上行寺の概要
山号 六浦山
院号 -
寺号 上行寺
住所 横浜市金沢区六浦2-2-12
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



上行寺の縁起

上行寺の創建年代などは不詳ながら、真言律宗金勝寺と称して富木五郎胤継の武運長久の祈願所だったといいます。建長6年(1254)、富木五郎胤継が鎌倉幕府へ参勤の折、日蓮聖人と同船(船中問答)、富木五郎胤継は日蓮聖人を当寺普識法印に引き合わせた結果、当時を日蓮宗に改めたといいます。その後荒尾城主荒井平次郎光吉が当寺で修行を積んでいたところ、中山法華経寺第三世浄行院日祐上人が当地を巡行、当寺を上行寺と改めて開山、荒井平次郎光吉に妙法坊と授戒したといいます。妙法坊は真言律宗別格本山称名寺より仁王尊より譲り受けて身延山に奉納、身延山より日荷上人(文和2年1353年寂)と法号を授けられ、身延山より榧の霊木を持ち帰ったといいます。

新編武蔵風土記稿による上行寺の縁起

(社家分村)上行寺
境内除地三段、小名六浦にあり、法華宗下總國中山法華経寺末、六浦山と號す、本堂七間半に六間餘南向、本尊三尊を安す、開山日祐應安七年五月示寂す、日祐は千葉宗胤の孫胤貞の子にて、本山法華経寺第三祖なり、開基は荒井平次郎光吉なり、入道して妙法と稱し、日祐の弟子となりて當寺を開基せり、此妙法を法華経寺の記には、六浦上人と載せ、身延山にては日荷上人と稱すといへり、且當所は建長六年宗祖日蓮富木五郎と船中問答ありし舊跡なりと云傳ふ、村内小名引越切通の南濱邊を里俗渡場と唱へ、房總より直に此所に着岸せし處なりなどいへり、されど杉田村妙法寺及町屋村安立寺にても各船中問答の舊蹟の由傳へたれば、何れを實蹟とすべきや詳にせず、又金龍院の傍に小名荒井と云地あり、そこに百姓等常に用る井あり、荒井と呼、形は四角にて石にて覺しなり、径り三尺程深さは凡一丈許、底は岩にてたとへば摺鉢の形の如し、その傍に荒井妙法と彫付あり、今は苔むして文字も見えず、妙法は荒井光吉なることは前に見ゆ、【鎌倉志】に上行寺堂の前に六浦妙法と云法師の石塔あり、文和二年六月十三日と刻と、今は此碑なし、近き年造りし中山富木殿荒井平次郎光吉入道舊蹟と記せる碑を立。
寺寶
消息一幅。日蓮上人筆。
大曼荼羅一幅。日祐上人筆。
妙法上人木像一軀。
同遺骨。
龍鱗一枚。日祐上人龍女を得脱の時残せし鱗なりと云。
柄香爐一箇。瓜の紋を鋳出す、此餘玉眼一顆を蔵す、こは金澤稱名寺山門にありし仁王の玉眼なり、彼像を光吉入道議を得て身延山に納る時、過て脱せしものと云。
日祐上人譲状一通。應安六年卯月八日日祐の記せしものなり。
祖師堂。本堂の西方にあり、三間に三間半、祖師は二尺餘の坐像なり、中老僧日法及本寺開基日常二人の作にて、日蓮三十三歳の時船中問答の姿を模せし像なりと云傳ふ。
三十番神堂。本堂に向て左の方なり、岩山の崖の穴中に立、前に鳥居あり。
山王社。東の山上にあり。
鐘楼。門を入て右にあり、鐘銘なし。
吉田兼好寓居蹟。境内東の山上なり、兼好五六年の程ここに住せしと云、兼好法師行状に云、武蔵國金澤と云所にこもり居てけり。明くれたた都の空のみ戀しくて、ありしことなど夢に見てうち驚かれたるに、かたり合すべき人しなければ、なくなく、さめぬれと、かたるともなき暁の、夢のなみだに袖そぬれつつ、又家集に、むさしの國かね澤と云所にむかしすみしに、家のいたふあれたるにとまりて、月あかき夜、故郷のあさちか庭の露の上に、とこは草葉と宿る月影、なとあるは當所にてよめるなるべし、【徒然草】に甲香は、ほら貝のやうなるかちいさくて口のほとのほそながにして出たる貝のふたなり、武蔵國金澤といふ浦にありしを、所の者はへなだりと申侍るとそいひしとあるも、此所寓居の時のことならん、甲香は海螺の厭にて製して焼物に和するものなり、【野槌】に云、一本はへとありはいを云にや覺束なし、今金澤にて尋ればばいと云、又つふとも云なり、兼好が時にはへなたりと云けるにや、はいに似て少し大にして口のほそながき貝あり、それをへなたりと云かとあり、一説にへなたりは都にてよなき共なかにしとも云といへど、よなきなかにしなと呼ものは謬螺なるよし小野蘭山いへり、今此邊の土人、はいに似て細長き貝を拾ひ、へなたりとて販くものあり。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による上行寺の縁起

一、船中問答着岸霊場の事
当山は六浦山上行寺と号す。往昔真言律宗にして金勝寺と称し、下総中山の領主で千葉介胤の有力な被官であった富木五郎胤継公の武運長久の祈願所であった。
建長六年(一二五四)十一月、富木公が鎌倉幕府へ参勤の砌り、下総二子の浦より渡航の折、鎌倉へお戻りの途次であった日蓮聖人と同船せられ偶々仏道の法論に及んだ。富木公は稀有なる篤学の士にして然も仏教の薀蓄深く、ここに仏法論をたたかわし、結果帰伏して詩檀の約を結んだ。これ即ち船中問答の由来なり。
船は六浦の浜に着し、富木公は日蓮聖人を請じて当山に伴い参らせ住僧普識法印に船中問答の顛末を物語りて日蓮聖人に面奉せしむ。(往昔六浦は渡船場の津として栄え、千葉との往来盛んなりし所なり。山門入口に船繋ぎの巨松ありしが枯死して今はない。)
普識法印は仏法の真義は法華経にあり、と捨邪帰正の大義を悟り自坊をあげて法華経弘通の道場とした。
普識法印歿後相続すべき弟子もなく無住荒廃し數十年の歳月が経過す。時に北条の武臣で荒尾の城主荒井平次郎光吉公、乱世を厭うて当地瀬戸の郷に隠棲しひたすら法華経の信仰に精進せられ、自家の領田をあげて金勝寺に寄せ、堂宇を再建するに及んだ。甘露名水を誇った金沢七井の一つ荒井の井戸は光吉公邸にある。
偶々下総中山の正中山法華経寺(富木公邸跡)第三世浄行院日祐上人が当地ご巡化の砌り、光吉公公授戒を受け妙法坊と号し、戒師である日祐上人を開山上人と仰ぎ、信行益々堅く修行怠りなく連日近郷十数里に渉り、風雨寒暑の別なく行脚修行なせしという。
日蓮聖人ご化導にして最初の法華経弘通、釈尊脇士の上行菩薩の名を冠し、上行寺と改称す。
一、日荷上人と身延山仁王尊由来の事
ここ隣郷金沢村の真言律宗別格本山称名寺の山門に名匠作の仁王尊が祀られてあった。或る據妙法坊に霊夢あり、「汝の信力堅固と怪力健脚にゆだね、われを身延山へ連れ行けよ、必ずや身延山の護神とならむ。」と感得し、直ちに称名寺寺主に仁王尊の譲渡を懇願したが受け容れられず、われと囲碁をたたかわし、もし吾敗をとれば潔く仁王尊をば御坊に与えんとの約を得、妙法坊は自家領田を賭けて勝負し守護の力を得て勝利を得、意気揚々として仁王尊二体を背負い、三日三晩歩き通しついに身延山に納め所願成就せしめた。
時に身延山主曰く、これ凡庸の所為にあらず、因って日荷と法号を授与された。後に身延山では日荷上人の徳を称え木像を刻み山門の仁王尊の傍に安置し供養す。
日荷上人は当山に於て文和二年(一三五三)六月十三日入寂す。御年九十三才であった。その廟所に繁茂せる榧は身延山より持ち帰りたる日荷上人御手植の巨樹霊木である。近郷杉田村梅林の名所、妙法寺も元真言宗にして日荷上人が改宗せしめたる名刹にてその境内に同じくお手植の榧が現存す。
一、徒然草の著者吉田兼好閑居の旧跡
本堂背後の山上の一画に兼好法師居住跡があり、五十才頃にこの景勝の地に於て詩想を豊富に勉学の地となし、数年草案を結んで住せし旧跡である。兼好の兄兼雄は金沢北条氏二代顕時、三代貞顕に執事として仕えた。当山西側通称殿谷戸に廃寺となりし嶺松寺あり。千葉氏系図によれば、泰胤の娘で北条二代顕時夫人の発願にて建立された寺院である。日祐上人は千葉氏十一代貞胤の義子となっていることから兼好はここ六浦に親しみ、草庵を建てられたものと思われる。(境内掲示より)


上行寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵国風土記稿