牛頭山妙法寺。領主間宮家の菩提寺
妙法寺の概要
日蓮宗寺院の妙法寺は、牛頭山と号します。妙法寺は、六浦上行寺の妙法日荷上人(荒井平次郎光吉)が開基となり、中山法華經寺第三世淨光院日祐上人(応安7年1374年寂)を勧請開山として文和元年(1353)に開山したといいます。江戸期には塔頭4坊を擁し、当地の領主間宮家の菩提寺となっていたといいます。
山号 | 牛頭山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙法寺 |
住所 | 横浜市磯子区杉田5-3-15 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙法寺の縁起
妙法寺は、六浦上行寺の妙法日荷上人(荒井平次郎光吉)が開基となり、中山法華經寺第三世淨光院日祐上人(応安7年1374年寂)を勧請開山として文和元年(1353)に開山したといいます。江戸期には塔頭4坊を擁し、当地の領主間宮家の菩提寺となっていたといいます。
新編武蔵風土記稿による妙法寺の縁起
(杉田村)妙法寺
除地、三町餘に二町餘、小名大戸にあり、法華宗、下総國中山法華經寺末、牛頭山と號す、開山は日祐上人、開基妙法日荷上人、此僧俗たりし時、荒井平次郎光善と稱し、後又因幡大掾と改む、晩に薙染して日荷と號し、惇く日蓮を崇信す、文和元年當寺を起立して中山法華經寺日祐を勧て開山とし、己二世を繼ぎ、同十二年六月十三日化す、今村民に日荷が子孫と云者あれど事跡の詳なるを傳へず、又六浦上行寺も日荷が起立の梵刹あれど、是も詳なる傳なし、又橘樹郡南加瀬村に妙法寺跡と云ものありて、日荷が開基せしなど云へど、もとより舊蹟となりしことなれば、其由来は詳ならず、又當所日蓮上人船中問答の古蹟なりと云傳れど、上行寺及び町屋村安立寺にても同じ傳へあれば、何れを實蹟とすべきや定かならず、本堂七間に六間半、本尊三寶及日荷が木像を安す。
三十番神堂。本堂の右にあり、九尺四方。
牛頭天王社。門外にあり、三間に二間、前に鳥居を建、社傳に云、日本武尊、東夷征伐として駿河國より武蔵国渡海の時、此杉田の沖にて俄に難風に遇ひ、漸く濱邊の山岡に上り、是なる松樹を神になぞらへ、牛頭天王に祝ひて軍中無難を祈誓し給ひしかば、忽風止み波静り、頓て恙なく渡船ありし故、此松を神松と名付、或蟹の形似たるにより、蟹松とも呼り、夫よりして當所を牛頭山と號すと云。
祖師堂跡。
鍾樓。堂に向て右の方にあり、鐘銘左の如し。(鐘銘省略)
神松。由来は天王社傳に見ゆ。
六浦上人墓。境内山頂にあり、正面中央に首題、左右に開山日祐上人、第二祖妙法上人と記し、碑陰に願主宗柏寺六世日進上人、當山二十世日選上人と彫る、此餘墓所に間宮兵庫頭常信以下子孫の碑幷立つ、常信が家系陣屋蹟の條に具す。
塔頭。
観成坊。四間に三間、本尊三寶祖師を安置す、開基観成院日慶、寛永二年四月二十三日寂す。
寶蔵坊。六間に三間、大永六年間宮兵庫頭常信の室妙信が志願にて、寶蔵院日禮起立す、日禮は天文八年五月廿三日寂し、妙信は天文十一年十月十三日歿す、本尊三寶祖師。
眞如坊。四間に三間、三寶祖師を本尊とす、開基は間宮左衛門信秋の女、眞如院日安と號す、寛永十七年十一月朔日没す、以上三坊大門の左右に在しが、回禄の後未だ再建ならず。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による妙法寺の縁起
妙法寺は、牛頭山と號し、磯子區杉田町四百七十八番地に在る。下總國中山法華經寺末で、寺格は中本寺紫金襴五等である。
沿革
文和元壬辰年の創立で、開山は中山法華經寺第三世淨光院日祐上人、應安七甲寅年五月十九日寂。開基は荒井因幡守光善である。光善深く妙法に歸依し、中年入道して六浦入道と稱し、日祐上人の戒を受けて、妙法院日荷と號した。是れより先、弘仁元年四月、弘法大師巡錫して此地に來り、日本武尊の靈跡なるを敬慕し、山頂神松の下に牛頭天王を勸請し、一字を草創して、牛頭山と稱した。爾來大師の舊蹟として眞言宗を奉じ、住僧順智法印の世に至つた。然るに地頭六浦入道の誘導する所となり遂に日宗に歸し、日祐上人に謁して、名を日順と改めた。此に於て日荷は私財を投じて、堂宇を改修し、更に地を相して一祠を造營し、牛頭天王を遷座して之を奧の院となし、其改修した堂宇を前殿となし、寺を妙法寺と改稱し、日祐上人を請じて開山とし、自ら第二世に列し、日順をして第三世たらしめた。當寺は舊領主間宮氏累代の菩提寺であつた。第九世日除の代に至り、舊來の堂宇を廢し、新に本堂を再建し、第十七世日集代に梵鐘の鑄造、第十九世日達の代に客殿。第二十一世日永の代に牛頭天王社の建立をなし、第二十五世日惠の代に本堂内彩色等を施し、寺門の興隆を遂げた。然るに第二十六世日將の代、明和元申年十二月二十六日、火災に罹り、堂宇悉く灰燼に歸し、其後同代に庫裡を再建し、第二十七世日享の代に客殿・玄關、第二十九世日隨の代に山門、第三十世日行の代に長屋門を建て、第三十一世日實の代に牛頭天王社・鐘樓堂を再建、梵鐘を再鑄した。第四十世日運の代に諸堂・庭園等の修覆を加へ、漸く茲に舊觀に復した。古へは寶藏坊・眞如坊・觀乘坊の塔頭三箇院があつたと云ふも、中古廢して當寺に併せた。末寺には橘樹郡加瀬村了源寺、區内上中里町隨緣寺・間宮寺(今は廢寺となり、當寺に併合した。)等がある。
本尊
本尊は十界大本尊・宗祖大聖人。
堂宇
本堂(桁行七間、梁間五間、草葺、破風造。)は第七世日除の代に造立したが、第二十六世日將の代、明和元年十二月二十六日燒失した。第二十七世日享の代に再建したのが、今の本堂である。當時天井板竝に大黑柱は、吉田勘兵衞の寄進にかゝる。庫裡(桁行九間、梁間九間、草葺。)は第二十六世日將の代に建立し、第四十世日運の代に再建を加へたものである。其天井板竝に大黑柱も亦吉田勘兵衞の寄附と云はれてゐる・鐘樓(桁行九間、梁間九間、草葺。)は第十七世日棟の代に建立し、明和元年十二月二十六日燒失したので、第三十一世日實の代に再建した。山門(桁行九間、梁間九間、亞沿葺。)は第二十九世の代に建立されたものである。此外に玄關(桁行四間、梁間四間、亞沿葺。)附屬建物(桁行七間、梁間四間、草葺。英照・昭憲兩皇太后當所へ行啓の際、御座所に宛てられたもの。)一棟・同(桁行十間、梁間二間半、亞沿葺。一棟)がある。
境内社
牛頭天王社。桁行二間、梁間二間、亞沿葺。其門は桁行き九間、梁間六間、亞沿葺。第二十一世日永の代に再建し、明和元年十二月二十六日。火災に罹つて燒失し、第三十一世日實の代に再建し、第三十二世日正の代に鳥居門を建立したが、大正十二年九月一日の震災に倒潰し、同十三年に再建を遂げた。當社祭神は日本武尊である。妙法寺緣起に曰ふ。「景行天皇四十年、日本武尊東夷征討ノ爲メ、駿河國ヨリ武藏國へ航海シ給フトキ、杉田沖ニテ暴風起リ、軍船將ニ沈沒セムトス。侍妾弟橘姫、尊ニ啓シテ同ク、是必ズ海神ノ尊ヲ惱シ奉ルナラム。願クハ妾身ヲ以テ之ヲ購ハムト。卽、身ヲ躍ラシテ海ニ投ジ給ヒシカバ風浪少シク靜マレリ。ヨリテ辛ウジテ杉田村ニ上陸シ給ヒテ、山頭ノ松樹ヲ目シテ天神トナシ、一軍ノ無事ヲ祈ラセ給ヒシカバ、須臾ニシテ風止ミヌ。ヨリテ無レ恙征途ニ就カセ給ヒタリト云。時人其松ヲ崇メテ神松ト稱シ、其ノ海ヲ號シテ馳水トイヘリ。弘仁元年四月、釋空海、日木武尊ノ靈跡ナルトヲ敬慕シ、神松ノ下ニ牛頭天王ヲ勸請シテ、眞言ノ一寺ヲ創ス。之ヲ牛頭山ト云フ。其後荒廢ニ垂ナムトス。文和元年、荒井因幡守光善、薙髮シテ下總中山法華經寺日祐上人ノ弟子トナリ、法名、日荷ト稱シタルモノ、大ニ之ヲ歎キ、乃チ改修增築シ、更ニ遠藤山ノ地ヲ相シ、一祠ヲ造營シテ天王ヲ遷座ス。云々。」當社古來山上の神松附近に在つたを、第二十二世日永の代に、今の地に遷座したと云ふ。新編武藏風土記稿に曰ふ所も略〻同樣であるから、此には掲げない。社の右石段傍に、祇園の瀧と云ふのがある。これは第四十世日運の代、昭和三年、御大典記念として築造したものである。番神堂。桁行九尺、梁間九尺、亞沿葺。安永未年、富岡村齋田平重郞、本社竝に雨家とも再建寄進したものである。笠森稻荷。桁行六尺、梁間六尺、亞沿葺。白龍大善神堂。桁行一間、梁間一間。淨行菩薩の石像を安置してある。之は大正十五年、三十九世日通の代に建立したものである。奉安する所の白龍大善神は、住昔當浦で投水し給うた橘姬を云ふとの事である。
(中略)
杉田は梅を以て世に知られて居る。梅林は當寺境内を中心とし、往年英照皇太后・昭憲皇太后の台覽があつた。天下の俳人亦杖を曳き、觀賞の詩歌を恣にした。斯く名を得た梅樹の中に就き、當寺庭前の照水・珠簾の二木は、殊に名高い。曾て英照皇太后觀幸の時、古へから珠簾と呼んでゐたを照水と命名せられ、又照憲皇太后臨啓の際、側の名木に珠簾の名を襲がせられた。今も此の兩木、共に梢の茂り行くは、聖代の餘光であるとして居る。其他境内に窓斜梅・曉雲梅・樂天梅・求古梅等の名木がある。又境外照水池の周邊に梅樹があつて、鱗潛梅・白雲梅・溪月梅・朱雀梅・鳳鳴梅などの名がある。本堂前の榧木は、日荷上人甲州身延山に到り、歸るに臨み、三株を拔き來つて、六浦上行寺竝に當寺の庭内に、他の一は自家の庭中に手植したと言傳へて居る。上行寺及び寺のものは、今尙繁茂し、入道自家の庭内に植ゑたものは枯死した。當寺のものは幹の圍り凡一丈四尺餘りある。梅花碑は、本堂前左側に在る。明治十七年三月十九日、同十九年三月二十一日、英照皇太后・昭憲皇太后の行啓し給うて、觀賞の光榮を辱うした事、及び往時日本武尊東夷征討の靈蹟を不朽に傳へんがため、明治二十八年十月、智旭の代に、御影石の大碑を建設した。其篆額は小松大將宮、撰文は島田篁邨、書は西岡宜軒である。六浦上人の墓は、境内山頂にある。正面中央に首題、左右に開山日祐上人、第二祖妙法上人と記し、碑陰に願主宗柏寺六世日進上人、當山二十世日選上人と刻してある。間宮氏累代の墳墓は、梅花碑の背後にあり、間宮兵庫頭常信以下子孫の碑が立ち竝んで居る。買明發句塚は、門を入つて左側にある。天明五年の建設である。境外山門前に照水池がある。中央に昭和三年十一月、橫濱鹽魚商組合が大典奉祝記念として鮭塚を建設して碑を建てた。於德地藏は照水池の涯にあつて、石の地藏を安置してある。其緣起に云ふ、延享三年、陸前國石卷湊多福院境内の靈泉から瑠璃の靈光を發し、地藏尊が出現した。時に德女と云ふ老媼が、之に伴うて出で來り、戸每に和平幸福を說き、福德壽喜財、五福の祕法を授けて、雲上に去つた。さては本尊の化身であらうと、湊を擧げて此功德の喜に浴し、爾來香華の絕えたことは無かつたと云ふ。嘗て願主某が靈夢に悟る所あつて、東北に方り、瑠璃の靈光、瑞雲と共に五福の祕法を授くる菩薩あるを知り偶〻石卷に遊び、多福院で邂逅したのが、實に本尊であつた。仍つて請うて當山靈域に徙し、昭和四年、茲に安置したのである。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
妙法寺所蔵の文化財
- 杉田の梅林
杉田の梅林
このあたり一帯は地質が穀類や蔬菜類には適さないので、天正年間(1573-1592)領主間宮信繁が梅樹の植付を奨励し、その果実を売らせて生活の一助とさせました。梅樹は土地に合い繁茂し、元禄(1688-1704)の頃には3万余株となり、寛政〜享和(1789-1804)の頃には近隣の森・根岸・滝頭・富岡の村々も梅樹を植えたと伝えられています。
明和〜安永(1764-1781)の頃、杉田の梅は、金沢探勝のルートとして加えられるようになり、文化〜文政(1804-1830)の頃には江戸近郊の名所として文人墨客が訪れ、佐藤一斎の「杉田村観梅記」、清水浜臣の「杉田日記」が出版されてからは一層有名になりました。観梅客は海路・陸路から訪れ、熊野神社境内の高台は梅見の場所として知られました。ことに妙法寺境内は名木が多く梅林の中心でした。境内には熊野神社境内とともに梅を詠んだ句碑が建っています。
妙法寺は牛頭山と号す日蓮宗の寺院で、文和元年(1352)の創立です。旧領主間宮家累代の墓碑があります。(横浜市教育委員会文化財課・財団法人横浜国際観光協会掲示より)
妙法寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿