補陀洛山西方寺。横浜七福神の恵比寿神、関東百八地蔵霊場、武相不動尊霊場、旧小机領三十三所子歳観音霊場
西方寺の概要
真言宗系単立寺院の西方寺は、補陀洛山安養院と号します。西方寺は、醍醐三宝院座主、奈良東大寺別当の勝賢僧正が開山となり、建久5年(1190年)鎌倉笹目ヶ谷に創建、鎌倉極楽寺創建にあたり、極楽寺境内へ移転したといいます。極楽寺の衰微に伴い、明応4年(1495)当地へ移転、慶安2年(1649)には寺領6石7斗の御朱印状を拝領していたといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場15番、武相不動尊霊場9番、関東百八地蔵霊場87番、横浜七福神の恵比寿神です。
山号 | 補陀洛山 |
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院号 | 安養院 |
寺号 | 西方寺 |
住所 | 横浜市港北区新羽町2586 |
宗派 | 真言宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西方寺の縁起
西方寺は、醍醐三宝院座主、奈良東大寺別当の勝賢僧正が開山となり、建久5年(1190年)鎌倉笹目ヶ谷に創建、鎌倉極楽寺創建にあたり、極楽寺境内へ移転したといいます。極楽寺の衰微に伴い、明応4年(1495)当地へ移転、慶安2年(1649)には寺領6石7斗の御朱印状を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による西方寺の縁起
(新羽村)西方寺
境内、四段五畝、御朱印地の内、村の中央より少く北にあり、古義真言宗、橘樹郡鳥山村三會寺末、補陀洛山と號し、安養院と稱す、客殿九間に八間東向なり、本尊彌陀坐像にて長二尺あまり、慈覺大師の作なりと云傳へり、開山継眞永禄四年正月朔日遷化す、慶安二年高六石七斗を彌陀として賜はれり。
観音堂。三間に三間餘南向なり、境内に入右の方にあり、十一面観音は長三尺ばかりの立像なり。
八幡社。観音堂の丘上にあり、神體は木の坐像長六寸あまり。
天神社。観音堂の並にあり、これも木の坐像長六寸許。
鐘樓。観音堂の前にあり。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による西方寺の縁起
当山西方寺は建久五年(一一九〇年源頼朝公在世の頃)鎌倉の笹目ヶ谷に創建され、開山は醍醐三宝院座主、奈良東大寺の別当の勝賢僧正でございます。のちに北條重時が忍性菩薩を招き鎌倉に極楽寺を創設するに当たり極楽寺の一山の中に移されました。
極楽寺は施薬院など医療施設をも含む広大な大伽藍でございましたが、戦渦や天災に遭いその多くを失い、時代も足利の時代になり縮小され、西方寺も当地新羽に移建されました。
当地に移建されましたのは明応四年、今から約五百年前のことでございます。このように当山西方寺は由緒深い古刹で移建当初の本堂はどのようなものか解りませんが、多くの古い寺宝を残しております。
現在の本堂は江戸時代の享保六年(一七二一)今から約三百年前、鐘楼は宝永五年(一七〇八)山門は弘化年間(一八四四〜一八四七)の創建で、いずれも平成九年に横浜市の文化財に指定されました。。(境内掲示より)
西方寺所蔵の文化財
- 西方寺本堂(横浜市指定文化財)
- 西方寺鐘楼(横浜市指定文化財)
- 西方寺山門(横浜市指定文化財)
西方寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿