徳恩寺。横浜市港南区日野中央にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

日野山徳恩寺。仁和寺の尋清僧都が創建、新四国東国八十八ヶ所霊場

日野山徳恩寺の概要

高野山真言宗寺院の徳恩寺は、日野山真如院と号します。徳恩寺は、京都御室仁和寺の尋清僧都が康和元年(1099)当地に止錫して春日神社を創建、別当として当寺を創建したといいます。万治3年(1660)仁和寺惣法務宮から寺号を賜わり、真如坊から日野山真如院へと改号したといいます。金沢観音霊場24番、新四国東国八十八ヶ所霊場69番、金沢三十四所観音霊場24番です。

徳恩寺
徳恩寺の概要
山号 日野山
院号 真如院
寺号 徳恩寺
住所 横浜市港南区日野中央2-10-14
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



日野山徳恩寺の縁起

徳恩寺は、京都御室仁和寺の尋清僧都が康和元年(1099)当地に止錫して春日神社を創建、別当として当寺を創建したといいます。万治3年(1660)仁和寺惣法務宮から寺号を賜わり、真如坊から日野山真如院へと改号したといいます。

新編武蔵風土記稿による日野山徳恩寺の縁起

(宮下村)
得音寺
前に云春日明神社下にあり、古義真言宗、石川寶生寺の末、日野山眞如院と稱す、本堂七間に五間西南向、本尊阿彌陀立像長一尺三寸(新編武蔵風土記稿より)

「港南の歴史」による日野山徳恩寺の縁起

徳恩寺(日野山真如院)
徳恩寺第一五世の頼栄僧都が、元禄六年(一六九三)六月一日付で、「武蔵国久良岐部日野郷鎮守春日大明神霊像感得因縁並来由創興記録」を謹記して、後世のために残しているが、春日神社と、徳恩寺は、ともに創建を一にして、前記の記録が、両者を語る史料でもあり、徳恩寺では、これを寺伝と称している。
それによると、康和元年(一〇九九)九月、京都御室仁和寺の尋清僧都が、延命地蔵菩薩の尊像を背に負って、この地に来たったところ、霊感を得て、この地に止まった。このことを伝え聞いた、村人が、尊像の礼拝におとずれて非常な賑いを呈した。
武蔵の大守藤原成実は、尋清僧都に、厚く帰依していたので、自分が守神としている紫冠帯剣の神像を、僧都に与えた。僧都は、延命地蔵と共に、紫冠帯剣の神像を、春日山の中腹に祠を建立して、穂井の神社と称して祭祀した。即ち、これが現在の春日神社の前身である。
尋清僧都は、穂井の神社の傍にあった、霊井錫杖水のかたわらに、堂宇を建立して、この堂に、釈迦、文珠、薬師、地蔵、観音を奉安した。この五霊像は、太守成実卿が、諸寺より懇請したものでこの五仏像の内、地蔵菩躍は、常陸の国の大丞、平の国香が護持した、行基菩薩の作と伝えられ、霊験無双といわれる、現在の徳恩寺の本尊である。平の国香は、桓武平氏、高望王の長子で、平の将門の伯父にあたり、国香の子貞盛に将門は滅ほされている。貞盛は平の清盛の祖先にあたる。
久安六年(一一五〇)に火災の厄をうけ、正慶二年(一三三三)に、新田義貞の鎌倉攻めの余波を受けて、惟康将軍以来の寄進状、什宝を焼失。文禄三年(一五九四)には、雷火によって、春日神社の社殿と、ともに徳恩寺の堂宇も全焼した。
万治三年(一六六〇)五月二九日、仁和寺惣法務宮から、日野山真如院の号を賜わった。宝暦年中(一七五一~六四)客殿を再建。明治維新により、春日神社別当職を退く。
新四国東国八十八ヵ所霊場第六十九番札所。(「港南の歴史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による日野山徳恩寺の縁起

徳恩寺
位置
德恩寺は、日野山眞如院と號し、中區日野町二千百十三番地に在る。境内は三百七十坪。民有地。高野山金剛峯寺の直末で、寺格は十四等、金澤靈場第二十四番の札所である。
沿革
寺傳に云ふ、康和元年九月、仁和寺の尋淸に僧都、延命薩の靈像を負うて此地に來り奇瑞を戚得し、杖を留め、精修持念した。遠近の道俗が之を聞いて來拜するもの頗る多かつた。武藏守藤原成實も亦深く尋淸に歸依し、其護持した紫冠帶劒の神像を僧都に附屬し、春日の山頂に寶祠、穂井神社を營んで奉祀せしめ、卽ち僧都をして別當とした。今の同町鎭守、春日神社がこれである。依つて僧都は靈井錫杖水の傍らに一宇を造營し、茲に釋迦・文珠・藥師・地藏・觀音の五佛を安置し、眞如坊と稱した。これを當寺の濫觴とする。僧都は更に正覺坊・萬藏坊・光明坊・安養坊・觀音坊・正福坊の六僧房を建て、盆、法燈を興隆せしめた。長治元年、堀川左大臣源俊房から德恩寺の扁額を寄與され、これより寺號を稱した。同二年尋淸僧都仁和寺に還るに臨み、雅寶律師を二嗣とした。律師又頗る篤學、法流の發揚を謀つて、枝院二十四箇寺を開いて、末流にした。然るに久安六年、舞馬の殃に罹り、爾來、社寺日に衰へ、法流不振、無住であったこと百數十年。德治二年、藤原忠吉巡遊の途次、此靈場の衰退を聞き、卽ち有司に命じて修飾を加へ、舊觀に改め、翌三年、醍醐寺隆勝僧正を請して住持たらしめた。延慶元年、關東大旱に際し、祈雨の法を修して、其功を奏した。事、幕府に聞え、方五十有餘町の境内地を給ひ、更に相州永谷鄕に於て、春日御供料若干を寄附せられ、大に法燈を輝すに至つた。正和元年、僧正醍醐に還り、再び無住となつたので、六坊にて輪次社寺の主務を行ふ事とした。正慶二年、鎌倉の兵革に際し、神社竝に當寺も亦囘祿の厄に罹り、惟康親王以來、三代將軍の寄進狀、其他什寶等を失うた。其後、觀應二年、高尊僧都なる者、此撥頽を嘆き、其復興を幕府に請うたので、將軍尊氏は細川氏に命じて、舊跡に春日社及び當寺を再興した。然るに境内狭隘の故を以て應永十年、祐圓律師、管領上杉氏の助を得て、興隆を遂げ、赤松祐辨の護持佛、大聖歡喜天像を堂中に安置した。享德二年、本地堂の再建成り、藤原顯房から靑鳥三百貫、食糧五十餘石を賜うた。下つて永正十六年、享祿三年、天文十六年、永祿七年等、數次の修造を加へたが、其後幾星霜を經て再び社殿寺堂共に大破に及んだので、天正五年、法印長惠の代に、代官大藏近吉が、主命を以て修造を加へた。文祿元年四月二十八日、天火のため社殿竝に當寺共燒失、再び尊氏以來の文書等を失つた。翌二年、秀壽上人の代、小堂を建て、慶長十三年、秀洪法印の代、社殿竝に當寺を再建、此時、代官八木次郞五郞から食糧三十石を寄附せられ、爾來、石川寶生寺末に隸するに至つた。元和二年、寛永三年、明歴元年等、社殿共に修復。萬治三年五月二十九日、仁和寺惣法務宮から日野山眞如院の號を賜はり、寶歴年中、客殿再建。明治維新の際、神佛分離により、別當を退いた。明治四十二年、本堂改築。開基尋淸僧都以來、今に至るまで法統二十七世。慶長十三年以來、石川寶生寺末隸してゐたが、明治七年增德院の末派に轉屬し、更に大正十二年、高野山金剛寺の直末となつた。
本尊
本尊は延命地藏大菩薩の立像、長二尺二寸、行基菩薩作と云はれてゐる。
堂宇
今の堂宇は本堂桁行五間半、梁間七間、萱葺、四注造、明治四十二年改築。・庫裡桁行三間、梁間四間半、萱葺。・客殿桁三間、梁間三間半、瓦葺、大正四年建立。・長屋門桁行七間、梁間三間、萱葺、安政七年再建。等である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


日野山徳恩寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「港南の歴史」
  • 「横浜市史稿 佛寺編」