真光寺。横浜市港南区上大岡東にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

真光寺。平安時代末期に中興、東国八十八ヵ所霊場

大岡山真光寺の概要

高野山真言宗の真光寺は、大岡山蓮上院と号します。真光寺の創建年代等は不詳ながら、平安時代末期に諒賢(寿永2年1183年寂)が中興したと伝えられる古刹です。万治3年(1660)には仁和寺より大岡山蓮乗院の号を付与され、また明治維新までは上大岡鹿島神社の別当を勤めていました。関東大震災により倒壊し、境内地も亀裂が生じたことから、字入ノ前(上大岡コミュニティハウス・上大岡東二丁目公園付近)から当地へ移転しています。東国八十八ヵ所霊場63番です。

真光寺
真光寺の概要
山号 大岡山
院号 蓮上院
寺号 真光寺
住所 横浜市港南区上大岡東3-1-1
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



真光寺の縁起

真光寺の創建年代等は不詳ながら、平安時代末期に諒賢(寿永2年1183年寂)が中興したと伝えられる古刹です。万治3年(1660)には仁和寺より大岡山蓮乗院の号を付与され、また明治維新までは上大岡鹿島神社の別当を勤めていました。関東大震災により倒壊し、境内地も亀裂が生じたことから、字入ノ前(上大岡コミュニティハウス・上大岡東二丁目公園付近)から当地へ昭和3年に移転しています。境内観音堂は、「岐宮山安楽院観音堂」と呼ばれることから、上大岡にあった岐宮山安楽院から移されたものと思われます。

新編武蔵風土記稿による大岡山真光寺の縁起

(上大岡村)
眞光寺
境内見捨地、二畝、外境内付山四畝、村野東南にあり、古義眞言宗、石川寶生寺末、大岡山蓮乗院と號す、本堂五間半に七間、本尊阿彌陀、開山及起立の年歴は傳へざれど、中興僧諒賢壽永二年十月五日寂す、是より現住まで數十代、法號命日過去帳に連綿たり、古刹なること論なし。
神明社、稲荷社。共に境内にあり。
---
十王堂
見捨地、二段一畝、村の中程にあり、二間に三間、眞光寺持、下同じ。
---
地蔵堂
年貢地、二畝許、村の北にあり、二間に三間 (新編武蔵風土記稿より)

「港南の歴史」による真光寺の縁起

『新編武蔵風土記稿』には、院号が蓮乗院とあるが、現在は、乗は上と書く。
当寺の草創の年代、開山、開基は詳かにできぬが、中興諒賢が、寿永二年(一一八三)一〇月五日寂とあって、それ以後、現住まで三九代にわたり、法号忌日が連綿としているところから見ても「古刹なること論なし」と前記風土記稿にあるし、
市内でも近隣では、弘明寺に次く古刹であるといえる。
万治三年(一六六〇)五月仁和寺より、現在の山号、院号を附与されたというが、それ以前は不明である。
延宝七年(一六七九)二一世頼清代が堂宇を再建。当寺鎮守の天照皇大伸、稲荷大明神両社をも、同年一一月に再興して、寺内繁昌の祈願をしているし、天和三年(一六八三)二月には、鹿島明神の本殿、拝殿の再築も行なっている。
享保二〇年(一七三五)阿遮梨慧海代も、堂宇の修復を加えている。
明治維新以前までは、村内の総鎮守鹿島明神の別当を兼帯していたが、明治新政府は、慶応四年(一八六八)一二月二八日の「太政官達」で仏像を、御神体にしている神社は、以後速やかに御神体をとりかえるようにとのことで、当時の御神体であった十一面観世音菩薩は、当寺に還納されて、現在は客仏として本堂に安置されている。
当寺は、大正一二年九月一日の、関東大震災までは、字入ノ前(現上大岡幼稚園の所在地)にあったが、震災のため本堂、庫裡は倒壊し、境内は地割れが甚大で、堂宇の再建が不可能になったために、昭和三年現在地に移転して、伽藍を新築した。(「港南の歴史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による真光寺の縁起

眞光寺
位置
眞光寺は、大岡山蓮上院と號し、中區上大岡町字、東漸畑一千二百二十六番地に在る。境内は三百二十二坪。高野山金剛峯寺の直末、寺格は十六等である。
沿革
草創の年代及び開山・開基は詳ではないが、延享二年及び文化十三年、當寺書上に據れば、文安元甲子年の開創と云ひ、又、明細帳には、永承七壬辰八月とあり、何れとも定め難い。中興開山は諒賢法印 壽永二癸卯年十月五日示寂。である。萬治三庚子年五月、仁和寺から今の山號竝に院號を附與された。延寶七年、二十一世賴淸代、堂宇を再建し、享保二十年、慧海代に修理を加へた。古來、石川寶生寺末の古跡房上通であつたが、明治七年に增德院に轉屬し、更に大正十二年、高野山金剛峯寺の直末となつた。往昔、村内總鎭守鹿島明神の別當を兼帶して居たが、明治維新の際分離した。當寺は元字、入ノ前に在つたが、現住興運の代、大正十二年九月一日の震災で、本堂・庫裡共に倒壊し、境内地に龜裂を生じ、伽藍の敷地に適しない處から、現地に移轉して、昭和三年に、その再建を遂げたのである。
本尊
本尊は阿彌陀如來の廚子入、木造の立像、長二尺、作不詳である。
附記。寶歷四年九月、周榮代に再興し、昭和三年十月、三十八世興運の代に重ねて再興した。
堂宇
今の堂宇は本堂 桁行七間、梁間六間半、四注造、亞沿葺。・庫裡 桁間四間、梁間三間、亞沿葺、假建築。である。
境外社
白旗明神社 桁行一間、梁間一間半、瓦葺。は同町字、入ノ前の舊境内附屬地に在る。祭神竝に由緒は不詳。住古は當山鎭守として祭祀したものである。
附記。明治初年の頃までは、境内に神明宮・稲荷宮・十王堂、境外に地藏堂等が有つたが、今は何れも廢絕に歸した。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


真光寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「港南の歴史」
  • 「横浜市史稿 佛寺編」