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猫の足あと

光明山西有寺。横浜市中区大平町にある曹洞宗寺院

光明山西有寺の概要

曹洞宗寺院の西有寺は、光明山と号します。西有寺は、太田治兵衞が萬德寺開山西有穆山禪師に当地を寄進、明治33年に萬德寺別院と称して創建、明治34年に中郡吾妻村二ノ宮光明山善光寺(二ノ宮大應寺第五世舜桐が寬永元年に創建)の寺籍を移して、萬德寺開山西有穆山禪師を初世に仰いで西有寺と号して開山したといいます。横浜觀音三十三観世音霊場28番です。

西有寺
西有寺の概要
山号 光明山
院号 -
寺号 西有寺
住所 横浜市中区大平町96
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光明山西有寺の縁起

西有寺は、太田治兵衞が萬德寺を開山した勅特賜直心淨國禪師西有穆山禪師に当地を寄進、明治33年に萬德寺別院と称して創建、明治34年に中郡吾妻村二ノ宮光明山善光寺(二ノ宮大應寺第五世舜桐が寬永元年に創建)の寺籍を移して、西有穆山禪師を初世に仰いで西有寺と号して開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による光明山西有寺の縁起

江戸期武蔵国内になかったため掲載なし(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による光明山西有寺の縁起

西有寺
位置及寺格
西有寺は光明山と號し、中區中村町字平樂百四十一番地に在る。境内は二千五百坪。市内中區宮崎町萬德寺の末寺で、寺格は曹洞宗末派の最高位なる常恒會十三級である。
沿革
當寺は勅特賜直心淨國禪師西有穆山禪師の創立した所で、其權輿は、本寺たる萬德寺第二世玉田仁齡の代、檀徒たる太田治兵衞が、其母の隱棲地として中村町に一千二百坪の地を購つたが、其土地は塋域に近いから、寧ろ寺院の淨域たらしめようとの本願を發し、平素歸依する萬德寺開山西有穆山禪師に該土地を寄進したに起る。爾後禪師の篤信者相糾合して、淨財を醵出し、此地に堂宇を建立し、明治三十三年三月二十六日、禪師を迎へ、開堂式を擧行して、萬德寺別院と稱した。其後禪師の俗弟、宮田直次郞が、萬人講を組織して、互に淨財を喜捨し、佛具・法器等を整へて、面目を一新した。是に於て寺號の公稱を企て、諸般の手續を了して、明治三十四年一月十九日、其筋の認可を得、縣下中郡吾妻村二ノ宮善光寺の寺籍を移し、始めて寺院たるの資格を完ふするに至つた。因に、元の善光寺は、光明山と號し、二ノ宮大應寺第五世舜桐が、寬永元年に創立した所である。共後荒廢して僅かに寺籍の存してゐたのを、當市に移し、再び法燈を揭ぐるに至つたのである。翌年二月二十二日、萬德寺開山西有穆山禪師を仰いで、傳法初祖とし、寺號を西有寺と改稱した。明治三十五年三月二十六日、日置默仙が暹羅國より將來した金銅釋迦牟尼佛を迎へて、本尊に安置し、同三十六年六月、信徒原田久吉が境内に地藏堂を建立した。明治三十七年夏、玉田仁齡が第二世の法統を嗣いで、寺門の發展に畢生の力を注ぎ、同三十八年四月、先づ梵鐘を鑄造し、鐘樓を造立して、尋いで隣地を購入し、寺域を擴張し、僧堂・庫裡・位牌堂・開山堂等を新築して、輸奐の美を添へ、明治四十四年九月に、認可僧堂を開單して、四來の龍象を陶冶し、大正二年の春、寺格を常恒會に進め、大正十一年三月一日、其筋の認可を得て、西有專修中學林を開き、翌十二年二月十七日、其組織を財團法人となし、愈〻設備を充實して、宗門の子弟の敎養を進めた。大正十三年十月、現住佐野良光が、第三世の法席を董し、隣接地を購入して、寺域を二千五百餘坪に擴め、更に寺有の塋域を購入して、益〻寺門の隆昌を企畫した。殊に大正十二年九月一日の大震災直後の復興に努力すると共に、昭和二年四月には、認可禪林を開設し、翌三年六月には、專門僧堂を開單して、專ら禪風の宣揚に盡瘁しつゝある。
當寺の本尊は、日置默仙が暹羅より將來した金銅釋迦牟尼佛をであることは旣に記したが、其尊像は、明治三十三年、日本佛敎各宗を代表し、佛骨奉迎副使として暹羅國に渡航した日置默仙(當時遷州可睡齊住職、後、曹洞宗大本山永平寺貫首、勅特賜明鑑道假禪師。)に對し、同國皇室より下賜せられたものである。其機緣によつて、明治三十六年十二月二十八日、同國皇太子御來朝の折、當寺へ行啓あつて、本堂前に公孫樹一對の御手植があり、又銀製煙草入一箇、及び金五十圓を下賜され、御歸國後は、更に御直筆署名の尊影を下附された。同三十九年五月五日、同國皇族ナコンチャエスリー御來朝の節は、特に住職に拜謁を賜ひ、金三十圓を下附された。同四十一年九月二十日、御來朝の同皇族チャイシイは、帝國ホテルに於て、當寺住職に拜謁を賜ひ、金二十圓を下附された。同四十四年十二月三日、同國皇帝の戴冠式に際し、本邦佛敎各宗管長、竝に當寺代表者であつた當時の日暹寺住職日置默仙は、特に渡暹して賀表を捧呈したので、大正二年一月十七日、同皇室から記念品として銀製香爐一箇を當寺へ下賜された。更に同年六月七日、同國に於ける大僧正の勳位を意味する貴重品寶扇一握の下賜があつた。斯くて同皇室の當寺に對する御歸依は益〻厚きを加へたと云ふことである。
本尊
本尊は金銅釋迦牟尼如來の坐像、高一尺である。明治三十三年、佛骨奉迎使代表副使日置默仙が、暹羅國皇室より同國文部大臣の手を經て拜受したもので、同三十五年三月二十六日入佛安置した所である。
堂宇
現今の堂宇は、本堂 桁行十五間、梁間八間、木造、瓦葺。・庫裡 二階建、階下九間一尺に五間、階上四間に二間半、木造、瓦葺。及び位牌堂等である。
境内佛堂
境内佛堂、觀音堂。本尊は觀世音菩薩で、元、神奈川臺の大日堂に安置してあつたものと云ふ。大正三年七月入佛した。堂宇は六面造、各面十尺、同年十一月の造立である。同地藏堂は、明治三十六年六月、信徒原田久吉の發願で創立したもので、本尊は子育地藏尊である。堂宇は三間に四間の木造、瓦葺である。同稻荷堂は、明治四十二年二月、市内三吉町港・源の二社を同時に移轉建立したもので、俗に出世稻荷と稱す。堂宇は眞堂四尺四方、木造、亞鉛葺である。禮拜堂は二間に一間半、木造、瓦葺。拜殿は一間半に一間半、木造、亞沿葺である。
住職世代
開山勅特賜直心淨國禪師
禪師俗姓は西有、諱は瑾英、穆山と號し、又、可翁・有安・無爲等と稱した。文政四年十月二十三日、陸奧國三戸郡濱通湊村に生れた。父は笹本長次郞、母は八戸町西村源六の妹である。天資英邁、齡九歲の時、母に隨うて八戸村の眞宗願榮寺に詣で、一席の法談を聞き、更に地獄極樂變相圖を見、坐ろに出離の念を起し、遂に父母に請うて共香華院たる類家村長流寺金龍和尙に就いて得度した。二十一歲のとき江戸吉祥寺學寮に遊び、後、淺草本然寺泰禪師の室に入つて嗣法し、更に佛關・宗桓・篾舟・雲齡・愚禪等の諸師に歷參し、最後に小田原海藏寺月潭に就いて苦學參禪すること、十有二年の久しきに及んだ。明治五年、大本山總持寺東京出張所監院に任ぜられ、又、陸奧法光寺、遠州可睡齋等の名刹に住し、明治十六年、權大僧正に任じ、次いで大本山永平寺西堂に補せられた。同三十三年、當山の請を受けて開山第一祖となり、同三十四年、末派の公選に依り、大本山總持寺獨住第三世の席を董し、六月十九日、勅命を以て直心淨國禪師の徽號を賜はつた。爾來、曹洞宗管長として宗門の綱紀を統べ、三十八年退鼓を撾ち、再び錫を當山に駐めて、專ら親參の道俗を接化し、明治四十三年十二月四日、九十歲を以て遷化した。著述には語錄等數十部あつて世に行はれて居る。
第二世玉田仁齡。第三世佐野良光。現住。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


光明山西有寺の周辺図

参考資料
  • 「横浜市史稿 佛寺編」