長福寺。横浜市泉区和泉中央南にある臨済宗円覚寺派寺院

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天王山長福寺。泉小次郎が道場として創建

長福寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の長福寺は、天王山と号します。長福寺は、鎌倉時代の武士泉小次郎が創建した道場だといい、大覚禅師の法弟・空山円印禅師が開山、円覚寺102世大雅省音禅師(応永26年寂)が円覚寺派として応永2年(1395)に中興開創したといいます。

長福寺
長福寺の概要
山号 天王山
院号 -
寺号 長福寺
住所 横浜市泉区和泉中央南4-18-11
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



長福寺の縁起

長福寺は、鎌倉時代の武士泉小次郎が創建した道場だといい、大覚禅師の法弟・空山円印禅師が開山、円覚寺102世大雅省音禅師(応永26年寂)が円覚寺派として応永2年(1395)に中興開創したといいます。

新編相模国風土記稿による長福寺の縁起

(和泉村)長福寺
天王山と號す、臨済宗鎌倉円覚寺末。寺傳に鎌府盛なる頃泉小次郎が創建せし道場なりと云ふ。小次郎が事詳ならず、東鑑に見えし、泉小次郎親平が事にやと思ふに、是は建暦三年三月二日工藤十郎主従を撃て、逐電すとあれば、其時代爰に合せず、今境内に天王山と呼ぶ、方三町許の地あり、南より西に廻りて、城渠の遺従と云つべきものあり、是小次郎が城蹟と云へば、當時此所に居住せしなるべし。開山圓印、大覚禅師の法弟と云ふ。中興は省音、本寺百二世応永廿六年六月八日寂す。本尊釈迦を安ず。
天王社。(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による長福寺の縁起

長福寺の歴史ー伝承泉小次郎親衡
大凡長福寺の歴史を遡るに鎌倉時代泉小次郎親衡の創建道場と伝う。開山は大覚禅師の法弟・空山円印禅師なり。中興の祖は、円覚寺百二世大雅省音禅師にて、応永二年(一三九五年)開創し以来、法燈連綿として今日に至る。
泉小次郎親衡は信濃の国(上田市小泉)の住人にして信濃源氏の嫡流なり。建暦三年(一二一三年)二代将軍源頼家の遺児千寿を擁して、執権北条家打倒(源氏再興)を企てるも事前に発覚し追手を討ちて行方を晦ます。
小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆三百三十余名に及ぶ。
この泉親衡の乱が口火となり、侍所別当和田義盛の乱起り、北条体制に不満を持つ相模武士団が挙兵する(吾妻鏡より)
泉小次郎の行方については諸説あるも、唯一川越市最明寺縁起に鎌倉退出後諸国を転々とした後、武蔵の国三芳野の豊田源兵衛を頼り千寿と共に出家、名を静海と改め文永二年(一二六五年)八十八歳で没す。
現在川越市小ヶ谷の墓所は戸泉氏と名のる二十五代当主守れり。
当寺裏山中央公園には、小次郎館跡・馬洗いの池と呼ばれる史跡あり。
また、隣接の須賀神社に守護神を奉斎、鬼門除けに神明社、守り本尊として滝の前不動尊を勧請したとの伝承あり。
ここに祀りし板碑は南北朝時代(元徳・建武・康永・貞和・延文等)の墓石で豪族や武士が供養の為建立せしものにて古き歴史を物語る。
この慶長福寺開創六百年を迎えるにあたり泉小次郎親衡の伝承を記すと共に有縁・無縁三界万霊安らかならん事を祈念するものなり。(資料提供いずみ郷土を知る会)
平成五年六月吉日 天王山 長福禅寺(境内掲示より)


長福寺所蔵の文化財

  • 泉小次郎伝承地(市地域史跡)

長福寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿