元宿神社|足立区千住元町の神社

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元宿神社|千住七福神の寿老神

元宿神社の概要

元宿神社は、足立区千住元町にある稲荷神社です。元宿神社は、甲州に住んでいた因幡守貞宗の長男蔵人が大永六年(1526)武州安達郡への移住を経て陸羽街道「元宿」に転居、その子左エ門尉信義が、天正元年(1573)当地を開拓し、翌年(1574)八幡社を奉斎したといいます。明治末年千住四丁目氷川神社に合祀されたものの、昭和五年稲荷神を合祀して再び元宿の鎮守となったといいます。境内には荒綾八十八ヶ所霊場五番の大師堂が祀られています。掲示によると、明治45開創時には多聞寺だったものが、大正11年には掃部宿西裏不動堂に、そして当大師堂は大正14年建立とあり、変遷したのではないかといいます。千住七福神の寿老神です。

元宿神社
元宿神社の概要
社号 元宿神社
祭神 誉田別命、宇迦之御魂命
相殿 -
境内社 -
住所 足立区千住元町33-4
備考 荒綾八十八ヶ所霊場五番



元宿神社の由緒

元宿神社は、甲州に住んでいた因幡守貞宗の長男蔵人が大永六年(1526)武州安達郡への移住を経て陸羽街道「元宿」に転居、その子左エ門尉信義が、天正元年(1573)当地を開拓し、翌年(1574)八幡社を奉斎したといいます。明治末年千住四丁目氷川神社に合祀されたものの、昭和五年稲荷神を合祀して再び元宿の鎮守となったといいます。

境内掲示による元宿神社の由緒

この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れねばならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。(足立区教育委員会掲示より)

境内掲示「感旧碑」解説掲示による元宿神社の由緒

我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左エ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開拓し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷守祠を建てました。
この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今之千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年〜四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
大正元年八月、内務省が荒川改修工事を行なうことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。(境内掲示「感旧碑」解説掲示より)

元宿神社の周辺図