稲荷山観音寺|開拓した金子五兵衛開基、荒川辺八十八ヶ所、荒綾八十八ヶ所
観音寺の概要
真言宗豊山派寺院の観音寺は稲荷山蓮華院と号します。観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建したといいます。本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八ヶ所霊場51番札所、荒綾八十八ヶ所霊場70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地でした。
山号 | 稲荷山 |
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院号 | 蓮華院 |
寺号 | 観音寺 |
住所 | 足立区綾瀬4-9-6 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 荒川辺八十八ヶ所霊場51番札所、荒綾八十八ヶ所霊場70番札所 |
観音寺の縁起
観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建したといいます。慶応4年(1868)3月には江戸から退却する新撰組の一隊が金子家とこの寺院に宿泊した際、新政府軍も伊藤谷橋まで進出し、戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードがあるといいます。
足立区教育委員会掲示による観音寺の縁起
真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で17世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶応4年(1868)3月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードを持つ。
開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八ヶ所霊場51番、荒綾八十八ヶ所霊場の70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に寛文4年(1664)の聖観音立像庚申塔があり足立区登録有形文化財となっている。(足立区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
(五兵衛新田)観音寺
新義真言宗、葛飾郡青戸村寳持院末、稲荷山蓮華院と號す、開発の民金子五兵衛の開基なりと云へど年代は傳へず、本尊観音を安す。(新編武蔵風土記稿より)
「ブックレット足立風土記綾瀬地区」による観音寺の縁起
観音寺(綾瀬4−9)
真言宗豊山派の寺で、本尊は十一面観世音菩薩で、寛永年間(1624−44)の作といわれています。五兵衛新田開発社の金子五兵衛の開基と伝えられ、金子家代々の菩提寺です。明治維新の折には、一時、新撰組隊士が分宿しました(次頁「新撰組と五兵衛新田」参照)。(「ブックレット足立風土記綾瀬地区」より)
足立風土記資料寺院明細明治5年項による観音寺の縁起
小本寺宝持院末 東京府管轄武州足立郡五兵ヱ新田 稲荷山観音寺
創立慶長19年3月賢智開山、香衣一色寺格
第24世住職 周運、壬申31歳。東京府管轄武州足立郡五兵ヱ新田農金子金五郎二男、嘉平5年3月16日東京本所二ツ目弥勒寺ニ於テ得度、万延元年3月15日右寺へ入寺、本山小池坊年数16ヶ年。以上僧壱人
境内、1反3畝12歩、但除地内4畝歩、年貢地
檀家 87軒
門末并庵室等無之(足立風土記資料寺院明細明治5年項より)
観音寺所蔵の文化財
- 金子五兵衛の墓(五輪塔形式)(足立区登録有形文化財)
- 寛文4年(1664)の聖観音立像庚申塔(足立区登録有形文化財)
観音寺の周辺図