暁月山実性寺|斉田左衛門尉頼康公開基、荒綾八十八ヶ所霊場
実性寺の概要
浄土宗寺院の実性寺は、暁月山林松院と号します。実性寺は、斉田左衛門尉頼康公(法名・実性院殿雲山暁空大居士、大永元年1521年寂)が開基となり、大本山増上寺第5世光蓮社天誉了聞上人(明応3年1494年寂)が開山となり創建したといいます。荒綾八十八ヶ所霊場44番札所です。
山号 | 暁月山 |
---|---|
院号 | 林松院 |
寺号 | 実性寺 |
住所 | 足立区花畑3-17-18 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | 永代供養墓、ペット霊園受付中 |
備考 | 荒綾八十八ヶ所霊場44番札所 |
実性寺の縁起
実性寺は、斉田左衛門尉頼康公(法名・実性院殿雲山暁空大居士、大永元年1521年寂)が開基となり、大本山増上寺第5世光蓮社天誉了聞上人(明応3年1494年寂)が開山となり創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による実性寺の縁起
(花又村)實性寺
浄土宗、下総國葛飾郡小金東漸寺末なり、暁月山林松院と號す、開山天誉「浄土傳燈総系譜」云天誉上人光蓮社了聞、延徳四年住増上寺、(第五世)於州足立郡花又村、建實性寺而退院于彼、(明応三年)某年七月八日寂と載たれど、當寺にある碑に□禄七天五月廿日とありて、上の一字摩滅して見えず、今按するに享禄なるにや、享禄は五年に改元して天文と號すれど、當時年をへてもとの年號を用ひし例ままあり、永禄七年としては、時代甚後るるに似たり、又「総系譜」に載する所の命日と異なるは「総系譜」五字の草を誤りて七とし、廿の字の書を説して八とせしにあらずや、開基を斎田左衛門尉頼康、法諡を實性院雲山暁空居士と云、大永元年七月廿三日卒せり、寺傳に云、此人は小田原北條氏の一族にして、當國岩槻の城主雅楽守某の子なりと傳るのみにて、世系詳ならず、今北條氏の系譜を閲するに、雅楽守と云者なし、又岩槻は其頃太田氏の居城にして、彼家の譜にもそれとすべき人見えず、本尊弥陀を安す、恵心の作也と云。(新編武蔵風土記稿より)
足立区仏教会資料による実性寺の縁起
大本山増上寺第5世光蓮社天誉了聞上人によって創建されたのが、いまから480年ほど前。開基は、小田原北条氏一族の斉田左衛門尉頼康公(法名・実性院殿雲山暁空大居士)。ご本尊阿弥陀如来は、恵心僧都の作と伝えられている。寺領は、徳川将軍家より拝領され、山門朱塗は、台徳院(秀忠)、大猷院(家光)御成のさいに許されたものである。
墓所には数学者金杉清三郎、金杉多右衛門清好、青木万吉(宝暦年間、1751-63)、神楽師藤野栄三郎、儒者・画家の牧野隆章、西洋洗濯の業祖遠山由蔵らの碑がある。
境内には三畳台目(梅雄軒)、八畳松風楼写し、七畳向切り、十畳残月写し、八畳二台目中板などの茶室を有し実性寺茶道部を形成している。
足立風土記資料寺院明細による実性寺の縁起
本寺印旛県管下下総国葛飾郡小金東漸寺、東京府管轄武蔵国足立郡花又村 暁月山実性寺
干支不詳、開基不詳。
第26世住職随善、壬申21歳。東京府管轄東京下谷坂本三丁目商間宮幸次郎次男、文久元年8月16日同国足立郡花又村於実性寺得度、明治3年10月20日住職、以上一人。
境内、1反2畝14歩、2反7畝26歩、1反5畝12歩、除地。檀家120軒。
実性寺の所蔵の文化財
- 牧野先生碑
牧野先生碑
幕末から明治の初年にかけて、花畑村に私塾を開いた牧野隆幸(一八二六~一八八五)の追悼の石碑である。門人が撰文し、建立したもので、俗にいう筆子塚である。
隆幸は、嘉永元年(一八四八)、信濃から江戸に出て苦学し、この花畑の地で私塾を開いたが、貧しかったため、花畑の戸長役場の書記も兼ねた。
助手を務めた長女久真が、病気で倒れ、その看護をするうちに、本人もまた病み、六十歳で没した。
江戸に出て、苦学して学問を身につけたが、その晩年の生活は、平安ではなかった。
万延元年(一八六〇)から、明治十七年(一八八四)までの二十五年間に、教えを受けた子弟は五百余人という。不遇で報われなかった恩師のため、門人達は碑を建て、師の鎮魂を祈った。(東京都足立区教育委員会掲示より)
実性寺の周辺図