花亦山東善寺|新六阿弥陀二番、荒綾八十八ヶ所
東善寺の概要
時宗寺院の東善寺は、花亦山西光院と号します。東善寺は、南北朝時代の14世紀中頃に、伊興の應現寺3世住職三阿弥陀仏上人が開山、江戸時代後期には新六阿弥陀二番札所として信仰を集めたといいます。荒綾八十八ヶ所霊場掛番札所です。
山号 | 花亦山 |
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院号 | 西光院 |
寺号 | 東善寺 |
住所 | 足立区花畑3-20-6 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 荒綾八十八ヶ所霊場掛番札所 |
東善寺の縁起
東善寺は、南北朝時代の14世紀中頃に、伊興の応現寺3世住職三阿弥陀仏上人が開山、江戸時代後期には新六阿弥陀二番札所として信仰を集めたといいます。
足立区教育委員会掲示による東善寺の縁起
当寺は時宗を宗旨とし、花亦山西光院東善寺と号す。南北朝時代の十四世紀中頃に、伊興の應現寺3世住職三阿弥陀仏上人が開山した。
三阿弥陀仏上人は当寺を念仏道場として衆生強化に生涯を捧げたと伝えられている。その後、兵火・天災に遭い堂宇伽藍・記録類のほとんどを焼失した。
元禄年間(一六八八~一七〇三)に長傅和尚が中興し、活発に強化活動を展開した。江戸時代後期からは、寺子屋を開設し、村の子女の教育に当たった。本堂には阿弥陀如来像が安置され、新六阿弥陀二番札所として信仰を集めたという。
本堂前の六字名号板碑は、康安元年(一三六一)の造立であり、完全な形で残された本区最大の板碑であり、足立区有形文化財に登録されている。これには、「花亦山西光院東善寺開山 三阿弥陀仏」の銘があり、寺や地域の歴史を知る貴重な資料である。(足立区教育委員会掲示より)
「ブックレット足立風土記花畑地区」による東善寺の縁起
東善寺(花畑3丁目20)
区内には、伊興の応現寺と当寺の二か所しかない時宗の寺で、花亦山西光院東善寺と号します。開山は、その応現寺の三世住職であった三阿弥陀仏上人です。1942(昭和17)年に発掘された板碑から、三阿弥陀上人は、1361(康安元)年12月14日に当寺で寂したことが明らかとなっていますので、当寺の創建年代は14世紀中頃と考えられます。本尊は、阿弥陀如来像で、新阿弥陀の二番札所です。境内には、「いぼとり」の霊験あらたかということで広く信仰を集めていた「いぼ地蔵」があります。(「ブックレット足立風土記花畑地区」より)
足立区仏教会資料による東善寺の縁起
東善寺は、南朝後村上天皇の代に僧三阿弥陀仏上人が開創し、当寺で念仏道場、衆生の教化につくし、生涯を捧げたとされている。現存の板碑(寺院名の刻まれているのは区内唯一)に明記されている。(この板碑は、昭和17年竹薮開拓のさい土中より発掘)
その後、堂宇伽藍、兵火、天災に遭遇し、記録もほとんど焼失している。
元禄年間(1688-1703)に長傅和尚が再興し、活発な教化活動を行ったとされている。近世に至り、当寺に修学道場を開設し、村の子女の教養のため分教場として教化事業にあたったようである。花畑小学校創立の以前も行っていたといわれている。
かつて、本尊(新六阿弥陀の2番)札所として、「花といや、みのりは春花東善寺、さてまた嵐さきにふきなば」と詠まれ、地蔵和讃も作られた寺である。地蔵尊御詠歌に「浮きしづみ、六字をめぐる地蔵尊、大悲の袖のかはくひまなし」とある。(足立区仏教会資料より)
新編武蔵風土記稿による東善寺の縁起
(花又村)
東善寺
時宗、伊興村應現寺の末、花俣山西光院と號す、開山は本寺三世の僧阿弥陀佛と云、康安元年十二月十四日寂す、則境内に墓碑あり、本尊弥陀を安ず、恵心の作なり。
稲荷社。秋葉を合祀せり。(新編武蔵風土記稿より)
東善寺所蔵の文化財
- 康安元年銘六字名号板碑(足立区登録文化財)
康安元年銘六字名号板碑
本堂前の六字名号板碑は、康安元年(1361)の造立であり、完全な形で残された本区最大の板碑であり、足立区有形文化財に登録されている。これには、「花亦山西光院東善寺開山 三阿弥陀仏」の銘があり、寺や地域の歴史を知る貴重な資料である。平成9年3月 足立区教育委員会(足立区教育委員会掲示より)
東善寺の周辺図