瑠璃山善応寺|明治11年清光寺を合寺、荒川辺八十八ヶ所
善応寺の概要
真言宗豊山派寺院の善応寺は、瑠璃山と号します。善応寺は、寛朝上人が開基となり貞治2年(1363)創建、明治11年(1878)清光寺を合寺したといいます。荒川辺八十八ヶ所霊場35番、36番札所です。
山号 | 瑠璃山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 善応寺 |
住所 | 足立区興野2-20-5 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | 善応寺会館 |
備考 | 荒川辺八十八ヶ所霊場35番、36番札所 |
善応寺の縁起
善応寺は、寛朝上人が開基となり貞治2年(1363)創建、明治11年(1878)清光寺を合寺したといいます。
「ブックレット足立風土記西新井」による善応寺の縁起
寺号は瑠璃山薬師院善応寺といい、真言宗豊山派に属しています。開創年代は1363(貞治2)年、開基は寛朝上人と伝えられています。江戸時代にはもう一つ清光寺という寺がありましたが、1878(明治11)年に善応寺に合併されました(清光寺の場所は現在の善応寺の第二墓地といわれています)。また、明治の初めには興野の教育をになっていた公立興野学校がおかれていました。本堂は1965(昭和40)に建立され、本尊聖観世音菩薩、両座に弘法大師・興教大師を安置しています。1945(昭和20)年の空襲後に再建された旧本堂は大師堂あとに移築されて薬師堂と称し、薬師如来を本尊としています。(「ブックレット足立風土記西新井」より)
新編武蔵風土記稿による善応寺の縁起
(興野村)善應寺
同寺(吉祥院)の末なり、瑠璃山薬師院と云、貞治年中の開基と云へど、是も開山の名は傳はらず、法流開山を祐性と云、延享五年七月三日寂す、本尊正観音を安。
薬師堂。薬師は行基の作なり、この堂古は村の東南の方にありしが、後ここに移り、其舊地は今も除地にして、當寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
合寺した清光寺について
(興野村)清光寺
新義真言宗、本木村吉祥院門徒、八幡山阿弥陀院と號す、當寺は正応年中の起立なりと云へど、開山の名も傳へず、本尊阿弥陀を安す。(新編武蔵風土記稿より)
「足立風土記資料寺院明細」による善応寺の縁起
小本寺吉祥院末 東京府管轄武州足立郡興野邑 瑠璃山善応寺
創立年暦等不詳、賢秀開山、色衣ハ香衣一色寺格。
但当住無之、東京府管轄武州足立郡本木邑吉祥院住職行阿兼務。
境内、但除地、1反12歩。檀家、42軒。(「足立風土記資料寺院明細」より)
善応寺の周辺図
参考資料
- 善應寺|ぜんのうじ(公式サイト)
- ブックレット足立風土記西新井
- 新編武蔵風土記稿
- 足立風土記資料寺院明細