寶蔵寺|足立区鹿浜にある真言宗智山派寺院

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医壷山寶蔵寺|荒綾八十八ヶ所

寶蔵寺の概要

真言宗智山派寺院の寶蔵寺は、医壷山福寿院と号します。寶蔵寺は、弘安年間(1278-88)、良算和尚によって鹿浜村南部に創建、江戸時代には、末寺8ヶ寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。荒川水除堤(熊谷堤)の造成により堤外となり、また水害も多いため、寛保2年(1742)以降に当地に移転しました。明治7年には公立小学新井学校6番分校(公立小学鹿浜学校)が設けられていたといいます。荒綾八十八ヶ所霊場77番札所です。

寶蔵寺
寶蔵寺の概要
山号 医壷山
院号 福寿院
寺号 寶蔵寺
住所 足立区鹿浜3-20-5
本尊 薬師如来(行基菩薩作)
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 荒綾八十八ヶ所霊場77番札所



寶蔵寺の縁起

寶蔵寺は、弘安年間(1278-88)、良算和尚によって鹿浜村南部に創建、江戸時代には、末寺8ヶ寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。荒川水除堤(熊谷堤)の造成により堤外となり、また水害も多いため、寛保2年(1742)以降に当地に移転しました。明治7年には公立小学新井学校6番分校(公立小学鹿浜学校)が設けられていたといいます。

新編武蔵風土記稿による寶蔵寺の縁起

寳蔵寺
新義真言宗、豊島郡赤羽村寳幢院末、医壷山福壽院と號す、古は鹿浜山と云しが、御入国の後今の山號に改めしと云、開山良算は正和元年十二月廿一日寂す、境内に碑あり、本尊薬師は行基の作なり、又位牌堂にも同作の薬師を安ず、當寺元は荒川の堤外にありしが、後水災を避て今の地へ移せり、故に今も其舊地よりたまたま古碑出ることありといふ。
妙見堂(新編武蔵風土記稿より)

足立風土記稿寺院明細による寶蔵寺の縁起

小本寺宝幢寺末 東京府管轄武州足立郡鹿浜村 医壷山宝蔵寺。
創立年暦・開基不詳、香衣一色着用寺格。
第27世住職宥応47歳。埼玉県管轄武州埼玉郡鶴ヶ曽根村医師藤岡元泰三男、嘉永3年2月9日武州豊島郡上板橋於安養院得度、文久2年8月23日入寺、本山和州小池坊留学6ヶ年。以上僧一人。
境内、2反4畝24歩。但除地。
檀家206軒、門徒7ヶ寺、庵室無之。(足立風土記稿寺院明細より)

足立区教育委員会掲示による寶蔵寺の縁起

寶蔵寺は、医壷山福寿院寶蔵寺と号す。鎌倉時代の弘安年間(1278-88)、鹿浜村の南部に創建され、八世紀を経てきた古刹である。開山良算和尚の正和元年(1312)の寂の石碑が建立されている。
荒川水除堤(熊谷堤)の造成により堤外となり、また水害も多いため、寛保2年(1742)以降に、現在地に移転した。広大な寺域には、本堂・庫裡・薬師堂および美しい松並木の参道を備えていた。
本尊の木像薬師如来坐像のほかにも古い木造薬師如来坐像が二体あり、一寺に三体も祀られているのは珍しい。また、円空作不動像もあった。(円空仏は加賀阿弥陀堂に移す)
寺宝に、前記の良算和尚の外に運敞能化筆過去帳・同著作・鉄眼版大般若経600巻・中国渡来の琥珀揚柳観音像・庚申待供養像板碑等がある。
明治7年、当山に公立小学新井学校6番分校が設けられ、後に独立して「公立小学鹿浜学校」となった。ここは、鹿浜地区に於ける学校発祥の地である。(足立区教育委員会掲示より)

寶蔵寺のもと末寺

  • 鹿浜村阿弥陀院
  • 鹿浜村長楽寺
  • 鹿浜村常楽寺
  • 鹿浜村地蔵院
  • 鹿浜村慈眼寺
  • 鹿浜村教円寺
  • 鹿浜村大乗院

寶蔵寺の周辺図