神々森猿田彦神社|汐入の胡録神社の分霊を勧請
神々森猿田彦神社の概要
神々森猿田彦神社は、荒川区東日暮里にある神社です。神々森猿田彦神社は、汐入の胡録神社の分霊を勧請して祀ったと伝えられ、第六天社と称していたといい、明治に入り胡録神社、次いで猿田彦神社と改称しています。
社号 | 猿田彦神社 |
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祭神 | 面足尊、惶根尊、猿田彦命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 荒川区東日暮里3-8-8 |
備考 | - |
神々森猿田彦神社の由緒
神々森猿田彦神社は、汐入の胡録神社の分霊を勧請して祀ったと伝えられ、第六天社と称していたといい、明治に入り胡録神社、次いで猿田彦神社と改称しています。
荒川区教育委員会掲示による神々森猿田彦神社の由緒
江戸時代「第六天社」と称した当地を「カンカン森」と呼んだ。社前の「カンカン森通り」という通称はこれに由来する。以前はこの通りを「第六天通り」とも呼んでいた。明治中期。カンカン森は音無川沿いに開けた田圃の中にあり、竹薮が茂る淋しい所であったという。
なお、第六天社は胡録神社に改称、後に猿田彦神社と改めた。土地の作神、守護神として旧金杉神社の人々に崇拝されている。
境内に、胎蔵界大日如来の種子(梵字)を刻む享保13年(1728)銘の庚申塔、根岸氏子中が文化7年(1810)に寄進した手水鉢、本殿内に「猿田彦太神」の銘を刻む自然石型の庚申塔などがある。
この庚申塔台石正面には「峡田領金杉村大塚講中」の文字が、その左側面には14名の名が刻まれている。
なお、毎年9月1日に4ヶ町の氏子によって当社の例大祭が行われ、1年に1度本殿が開扉される。(荒川区教育委員会)
東京都神社名鑑による神々森猿田彦神社の由緒
当神社は汐入の胡録神社の分霊を祀ったと伝えられ、祭神は両足命、惶根命である。相殿の猿田彦神の鎮座の年代は寛永三年(一六二六)徳川三代将軍家光が、僧天海のすすめにより寛永寺を設立し、東叡山と称し、その後、正保十三年(一八四二)十二月東叡山領を定め、現荒川区は、そのうちの峡田領、岩淵領に含まれ、当時日暮里町は新堀村といわれ、風景非常に良く、これを望んだ時、霊暉の西に傾くのを忘れるゆえ、里民称して日暮しの里といい、後人これを唱えて日暮里とした。当時の伝説によると狭口領、岩淵領の領界に檜、五寸角、長さ二間の杭を打込み、領界を明らかにするため、その上に猿田彦神を御祀りしたとある。村民は土地の守護神として祀った。大正末まで田圃のなかに森があり、百年以上も経た老松が覆い繁り、現在の敷地の数倍を有し、森に入った人影は周囲より見えず、茂みは昼なお暗きため、神々しさに人呼んで俗に神々森といった。(東京都神社名鑑より)
境内掲示による神々森猿田彦神社の由緒
猿田彦神社の鎮座の年代は寛永3年、今を去る334年前、徳川3代将軍家光が僧天海の薦めにより寛永寺を設立し東叡山と称し、其の後正保13年12月(314年前)東叡山領を定め、現荒川区はそのうちの峡田領、岩渕領に含まれ、当時日暮里町は新堀村と云われ、風景非常に良く之を望むる時霊暉の西に傾くを忘るる故里民称して暮らしの里と云い後人之を唱えて日暮里と称す。当時の伝説に依ると峡田領、岩渕領の領界に桧5寸角長さ2間の杭打込み領界を明らかにする為、其の上に猿田彦神を御祀したとある(現在の神々森猿田彦神社)。
社には正徳2年(249年前)及び享保13年(222年前)の庚申塔・天水鉢が現存して居る。旧金杉村(現台東区下根岸と日暮里の一部)の村民は作神として尊崇し霊験灼かなる神に威徳を慕い村民は土地の守護神として御祭した。大正末期まで田圃の中に森が在り百年以上も経た老松覆い繁り現在の敷地の数倍を有し森に入った人影は周囲より見えず、茂みは昼尚暗き為神々しさに人呼んで俗に神々森と云った。月次祭は毎月1日、例祭は9月1日である。
胡録神社(現神々森猿田彦神社)は汐入の胡録神社の分家と云われ、天正15年頃祀りせしものと伝えられる。祭神は面足尊と惶根尊である。古くは第六天と称されていたが、明治初年神仏分離の際に今の名称に改められたものにて、元来第六天は仏法の破却する第六天魔王で忌むべき方角の地に阿修羅を祀り鎮めて村落生活の安全を期す為に御祀りしたものである。(昭和35年9月1日 六ヶ町連合会)
神々森猿田彦神社の周辺図