小塚原回向院|小塚原刑場跡、解体新書の地
小塚原回向院の概要
小塚原回向院は本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のため、1667年に小塚原刑場の傍らに開いた寺院です。文政5年(1822)津軽藩主津軽寧親を襲撃した南部藩出身の相馬大作を処刑して以降、国事犯の処刑場となったため、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰や鼠小僧、高橋お伝の墓など多くの供養碑があります。
山号 | 豊国山 |
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院号 | 回向院 |
寺号 | - |
住所 | 荒川区南千住5-33-13 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
小塚原回向院の縁起
小塚原回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために創建しました。
回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当寺は常行堂と称していた。
安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に解体新書を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、対象11年に観臓記念碑が建立された。(荒川区教育委員会)
小塚原回向院にある荒川区登録記念物(史跡)
- 吉田松陰の墓
- 橋本左内の墓
- 頼三樹三郎の墓
- 小塚原刑場跡
- 観臓祈念碑
小塚原の刑場跡
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町辺りから移転してきたといわれています。間口60間(108m)、奥行30間余(54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。 平成20年3月荒川区教育委員会
小塚原回向院の周辺図