諸宗山回向院|江戸三十三観音四番
回向院の概要
浄土宗寺院の回向院は、諸宗山無縁寺と号します。回向院は、振袖火事(1657年)の死者を埋葬し供養したのが起源です。出開帳や勧進相撲が行われ、江戸庶民の信仰の場とされました。昭和新撰江戸三十三観音霊場4番札所としての馬頭観音の他、力塚、鼠小僧の墓など数多くの名所があります。
また、赤穂四十七義士が討ち入った、本所松坂町の吉良邸跡はこのすぐそばです。
山号 | 諸宗山 |
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院号 | 回向院 |
寺号 | 無縁寺 |
住所 | 墨田区両国2-8-10 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸三十三観音霊場4番札所 |
回向院の縁起
回向院は、振袖火事(1657年:明暦3年正月18・19日)の死者を埋葬した当地に、江戸幕府の下知により芝増上寺の森蓮社遵誉貴屋上人が罹災者を供養、回向院と称したといいます。以後も堕胎死胎夭殤之霊の水子塚や、安政大地震の死者供養、刑死者の供養塔、関東大震災の罹災者の合葬など、無縁者を回向、江戸市中の尊崇を集めています。
「墨田区史」による回向院の縁起
回向院(両国二丁目八番一〇号)
諸宗山無縁寺田向院は、江戸の災害と深いかかわりを持つ寺院であり、明麿の大火(俗に振袖火事といわれる)による焼死者を埋葬した地に建てられたものである。
明暦三年(一六五七)正月十八、十九両日の大火は江戸開府以来の大惨事で、これを記録した文献は、「むさしあぶみ」を初め「実現災徐類記」「千登勢の満津」「元延実録」「明暦炎上記」「明良洪範」等、数多くある。この火災で江戸市中の大半が焼き尽くされた。「むさしあぶみ」には次のように記されている。
むさしと下総とのさかひなる牛島といふところに舟にてはこびつかはし、六十間四方にほりうづみ、新しく塚をつき、増上寺より寺をたつ。すなはち諸宗山無縁寺廻向院と号し、五七日より前に諸寺の僧衆あつまり、千部の経を読誦して魂を弔ひ不断念仏の道場となされけるこそ有がたけれ、江戸中の老幼男女袖を連ねて参詣し、声うちあげて諸共に念仏申して回向するこそたうとけれ。(中略)あまたの死かばねをひとつの穴にうずまれし事なれば、我親類はそこもとに埋れたれとは知らねども、せめて悲しさのあまりには、思ひ〃に日輪卒都婆を塚の上に立ならベ、聖霊頓証仏果と回向して、花をさし水をくみて跡をとぶらひ、なくなく念仏申すありさま見きくにつけてあはれなり。
また、「元延実録」によれば、「災後の正月二十三日から、町奉行の下知で各所から焼死者の遺体を集め、二十七日には幕府から遺体を埋葬したこの地に一寺建立の沙汰があり、二月七日には仏堂の仮屋ができ、大石塔を建て、慰霊のための資金として三百両が下された。以後、毎月十八、十九日は命日として、参詣人が絶えなかった」とある。開山は芝増上寺の森蓮社遵誉貴屋上人で、回向院の名称は上人の命名であったという。遵誉は、小石川智光寺の信誉貞存上人をここに招じ、堂舎その他も逐次完成して、江戸市民にとっては掛け替えのない寺院となったのである。明暦三年大火災殃死者の石塔には、次のように刻まれている。
延宝三己卯年
壱万日数 三界万霊六親眷属七世父母
奉回向明暦三丁酉孟春為焚焼溺水諸聖霊等増進仏果
別時念仏 蠢蠢群生有情悉皆成仏
八月二十五日
明暦の大火後の江戸の大天災といえば、安政二年(一八五五)十月二日夜半に起こった大地震がある。地震に伴って発生した大火災による被害はすさまじく、この時の犠牲者のうち、身元不明者や引き取り人のない者たちの遺体もまた、ここに埋葬されたのである。
大正十二年(一九二三)九月一日の大地震で難にあった者の一部も回向院に合葬されたという。境内には、海難に遭って水死した人たちの合葬墓や、明治二年(一八六九)肥後軍艦溺死四十七人墓というのもある。どういういきさつでここに葬られたかは分からないが、これが無縁寺回向院の真の在り方なのであろう。
水子塚というのがある。堕胎死胎夭殤之霊を供養するため、寛政五年(一七九三)五月、老中松平忠信が回向院一二世見蓮社在誉上人に建てさせたものである。
ほかに、寛文七年(一六六七)七月建立の捨市殃罰殺害前後衆霊魂等供養塔ゃ、天明三年(一七八三)浅間山噴火殃死者を供養した石塔もある。浅間山は、天明三年七月八日に噴火し、付近の村々の被害は極めて大きかった。「徳川実記」は、「死者二万人、牛馬数知らず、回畠の損失四十里余」と伝えている。石塔は、六年後の寛政元年八月に回向院の在誉上人が建立したもの、正面には南無阿弥陀仏と大書し、側面・背面に刻文がある。左側面の刻文を掲げると次のとおりである。
天明八歳龍次戊申臘念九日
県官令大常亀山侯、下台命於増上寺。其教曰、京師東都及奥羽上毛名刹六処、各当修無遮仏事廻向横死荒霊、且以祈大稔矣。於是錫白銀若干於各寺以為法要貲。東都本庄廻向院其一断。凡起寛政改二月十一日迄十三日、謹就道場勤修施食法会及別時念仏。東都大小寺院咸皆皆雲集。以助灋会法会既竣処、磨青石以勒祭文、永垂将来、祭文日
なお、回向院には、加藤枝直、加藤千蔭、岩瀬京伝、岩瀬京山、竹本義太夫、相撲呼出先祖代々、鼠小僧次郎吉など、多くの墓もある。
回向院と相撲とは深い関係があり、現在、日本大学講堂敷地になっている回向院境には、「力塚」の碑と「東京相撲記者碑」とがある。(「墨田区史」より)
回向院所蔵の文化財
- 加藤千蔭墓(東京都指定文化財)
- 銅造阿弥陀如来坐像(東京都指定文化財)
- 磐瀬京伝・京山墓(東京都指定文化財)
- 石造明暦大火横死者等供養塔(東京都登録文化財)
- 石造海難供養碑(墨田区登録文化財)
- 無縁法界塔(墨田区登録文化財)
- 石造阿弥陀三尊立像(墨田区登録文化財)
- 六面六地蔵石幢(墨田区登録文化財)
- 鼠小僧供養碑(鼠小僧の墓)(墨田区登録文化財)
- 回向院相撲関係石碑群(力塚)(墨田区登録文化財)
回向院の周辺図
参考資料
- 「墨田区史」
- 公式サイト:回向院 | 歴史の中で庶民と共に歩んできたお寺