腰掛稲荷神社|徳川家康が腰掛け休憩
腰掛稲荷神社の概要
腰掛稲荷神社は、文京区目白台にある稲荷神社です。腰掛稲荷神社は、徳川家康(或は徳川家光?)が出猟の際に当所で腰掛け休憩した場所といい、村人が敬意を表して祠を建てたといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 文京区目白台3-26-1 |
祭日 | - |
備考 | - |
腰掛稲荷神社の由緒
腰掛稲荷神社は、徳川家康(或は徳川家光?)が出猟の際に当所で腰掛け休憩した場所といい、村人が敬意を表して祠を建てたといいます。
新編武蔵風土記稿による腰掛稲荷神社の由緒
(小石川村)稲荷社
清戸にあるをもて清戸稲荷と稱す、則清戸及小石川四ツ家町の鎮守なり、此邊東照宮御放鷹の折から榎の古木に御腰を掛給ひしかは、其樹下へ當社を勧請せしにより土人腰掛稲荷と稱せり、彼榎もいつしか枯槁せり下高田村金乗院持。(新編武蔵風土記稿より)
「小石川區史」による腰掛稲荷神社の由緒
雑司ヶ谷町に在り、祭神は豊受姫命である。創建年代は不明であるが、元豊受大神と號し、徳川三代将軍家光が御鷹野の際、この地に休息したと傳へ、その故を以て腰掛稲荷とも云はれてゐた。
明治七年稲荷神社と改稱し、高田氷川神社の附属社となつた。社格は無格社である。(「小石川區史」より)
東京都神社名鑑による腰掛稲荷神社の由緒
社は、旧豊受大神と称し、徳川家光公が、鷹狩りの際、御休息なされた傍らの祠を御信仰なされた。その後、この祠を正一位御腰掛稲荷大明神と奉称し、近隣の崇敬あつく江戸時代より氏神となっていた。明治六年二月、社名を改正すべき法令により、氏子町名をもって豊川神社と改称したが、同七年さらに稲荷神社と改めた。昭和六年より専任神官を置き、社務所などを整備。(東京都神社名鑑より)
新撰東京名所図会による腰掛稲荷神社の由緒
豊川稲荷神社は、雑司ヶ谷町六十番地にあり。即ち鬼子母神出現所(註:清土鬼子母神堂)の前通りの南側六十七番地角に庚申塚あり。豊川稲荷と題せし標石を建つ。是より東に上れば、左に叢林ありて当社南面して建てり。石の鳥居盥石等あり。俗に腰掛稲荷といふ。相伝ふ、家康公嘗て出猟し此処に休憩せらる。後人因て祠を建て敬意を表す。故に此名ありと。其位置高崖の上に在りて、北方を瞰するに適す、休憩地には好位置なり。(新撰東京名所図会より)
腰掛稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑
- 「小石川區史」
- 新撰東京名所図会