浄土寺|文京区白山にある浄土宗寺院

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深廣山浄土寺|文京区白山にある浄土宗寺院

浄土寺の概要

浄土宗寺院の浄土寺は、深廣山西厳院と号します。浄土寺は、寛永5年(1628)傳通院裏門通築地に庵室として起立、越前宰相松平忠直が豊後の配流先で卒去した際、上意によって導師を務めた信蓮社單譽上人了宅が上京した際、忠直の子松平光長が当寺の堂塔を整え開基となり、單譽上人を開山としたといいます。承応2年(1654)当地へ移転したといいます。

浄土寺
浄土寺の概要
山号 深廣山
院号 西厳院
寺号 浄土寺
住所 文京区白山4-35-18
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



浄土寺の縁起

浄土寺は、寛永5年(1628)傳通院裏門通築地に庵室として起立、越前宰相松平忠直が豊後の配流先で卒去した際、上意によって導師を務めた信蓮社單譽上人了宅が上京した際、忠直の子松平光長が当寺の堂塔を整え開基となり、單譽上人を開山としたといいます。承応2年(1654)当地へ移転したといいます。

東京名所図会による浄土寺の縁起

浄土寺
浄土寺は小石川原町四十六番地にあり、深廣山西厳院と號す、浄土宗、傳通院末、寛永五戊辰年の起立にして、開山は単譽了宅なり、當寺初めは傳通院裏門通築地にありしが、承應二癸巳年上地となり、其己後方今の地に移れり。境内に小野篁作といへる石地蔵あり。
改選江戸志に云、本尊恵心僧都作
地蔵尊小野篁地獄より蘇生の時彫刻し給ふ
小石川志料に云、地蔵尊、内佛なり、小野篁作といへども詳ならず、舊き石地蔵なるが、水中に入置、日に水を沃ぐ、由来詳ならずと住僧の話なり、且本堂の脇に座像三四尺許の石地蔵あり、彼篁の作は、この地蔵の胎内にありと傳ふれば、覆へし見しに、至□然らば内佛の地蔵こそ作物なるべきかと是も住僧のみ云へり。この地蔵の前に青石の古碑一枚あり、文字剥て讀得ず。(東京名所図会より)

「小石川區史」による浄土寺の縁起

深廣山西嚴院浄土寺。浄土宗鎮西派で、傳通院の末寺である。本尊は阿彌陀如来。當寺の開創は寛永五年で、初めは傳通院表通りの築地にあり、當寺は單なる草庵に過ぎなかつた。慶安三年、越前宰相松平忠直が豊後の配所で卒去した時、上意に因つて導師を務めた豊後國生石村浄土寺の信蓮社單譽上人了宅が、遺骨と位牌とを護持して翌年出府し、遺骨埋葬の後傳通院の導譽上人に謁して當寺に住し、松平光長が父忠直の縁故により開基檀那として堂宇を建立してより漸く一寺の面目を備へた。よつて單譽を開山としてゐる(元禄十年十月廿六日寂)。その後承應二年に築地が御用地として召上られて今の地に移つた。文政時代には境内年貢地二百七十二坪、抱地五十坪餘あつた。現本堂は天保十二年の建立である。猶ほ境内には江戸末期の洋學者箕作阮甫と其一家の墓とがある。(「小石川區史」より)


浄土寺の周辺図


参考資料

  • 「小石川區史」
  • 東京名所図会