龍光寺|文京区本駒込にある臨済宗東福寺派寺院

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天澤山龍光寺|江戸幕府幕閣の重臣が開基

龍光寺の概要

臨済宗東福寺派寺院の龍光寺は、天澤山と号します。龍光寺は、東福寺240世・伊勢龍光寺25五世虎伯大宣禅師が、幕命により江戸に出府、肥前唐津藩小笠原家、三河吉田城主小笠原壱岐守忠知公、讃岐丸亀城主京極刑部少輔高和公ら幕閣の重臣が開基となり、寛永9年(1632)創建、明暦2年(1656)当地へ移転したといいます。

龍光寺
龍光寺の概要
山号 天澤山
院号 -
寺号 龍光寺
住所 文京区本駒込1-5-22
宗派 臨済宗東福寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



龍光寺の縁起

龍光寺は、東福寺240世・伊勢龍光寺23五世虎伯大宣禅師が、幕命により江戸に出府、肥前唐津藩小笠原家、三河吉田城主小笠原壱岐守忠知公、讃岐丸亀城主京極刑部少輔高和公ら幕閣の重臣が開基となり、寛永9年(1632)創建、明暦2年(1656)当地へ移転したといいます。

「本郷區史」による龍光寺の縁起

龍光寺
駒込東片町に在り、京都東福寺末、天澤山と號す、寛永九年勢州神戸龍光寺二十三世虎伯(延寶元年寂)の牛込なる大橋龍慶邸に開く處であるが、明暦三年駒込さいかち原なる現地に轉じ、小笠原壹岐守忠知(三州吉田城主)を開基とした。小笠原佐渡守長重(肥前唐津城主、元禄十四年老中となる。享保十七年歿、八十三)鵜飼錬齋(通称金平、平安の人、水戸の儒官となる、元禄六年歿、六十一)鵜飼稱齋(金平の弟、權平と稱す、水戸史館編輯享保五年歿六十九)鵜飼石斎(錬稱二齋の父、江戸の人帷を京師油小路に下す、寛文四年歿、四十九)三宅観瀾(第七編参照)深見自休(通史綱吉時代参照)稲葉迂齋(名は正義十五郎また十左衛門と稱す、江戸の人唐津侯の儒官となる。寶暦十年歿七十七)栗山潜鋒(第七編参照)恩田鶴城(通史家斎時代参照)餘吾古庵(各町史眞砂町参照)餘吾瑞善(官醫名は元長元文元年歿、七十二)中村元禮(儒者名は通方寛保元年歿)坂井伯元(號は漸軒又伐木細井廣澤の師と稱せらる。元禄十六年歿、七十四)石合江村(備前の人名は文之字は文蔵江村又黙翁と號す、明治六年歿五十六)荘田恬逸(江戸の儒者、名は良資字は賛卿又春庵正徳六年歿)等の墓がある。(「本郷區史」より)

東京名所図会による龍光寺の縁起

龍光寺
は同(駒込東片町)九十三番地にあり、天澤山と號す、禅宗東福寺の末派なり、住職松井千珠、寺門南に面す、右柱に「臨済宗京都五山事務出張所」、左柱に「臨済宗圓覺寺派、永源寺派方廣寺派事務出張所」の牌あり、傍に門番所を置き、門内本堂庫裡玄關に通ず。
當寺は伊勢國安藝郡神戸町天澤山龍光寺の分寺なり、伊勢龍光寺は後花園天皇永享二年勅願所となれり、中興第二十五世虎伯大宣禅師、寛永の初め大猷公の台命を奉じて江府に来り、芝金地院に於て碧巌録を提唱せるに、公も屡次肩腰を寄せられ諮問する所あり、伊勢國龍光寺と同格の待遇を受く、又官醫大橋隆慶法印(其邸牛込にあり今尚隆慶橋の名を存す)素交あるを以て、遂に其宅畔に小庵を結ぶ、後官地若干(今の矢来町の内)を賜ふ、當時閣安藤右京進、松平讃岐守、藤堂大學頭、同佐渡守、小笠原兵部次郎、同壱岐守、京極備中守等各其第に請して道要を問ふ、就中京極氏小笠原氏は永く桓越の約を結び、墳墓を托するに至る、實に寛永九年なり、爾来茲に住すること二十五年、明暦二丙申年官故ありて此地を酒井若狭守に賜ふ(俗に矢来の酒井といふ牛込区の部参照)即ち代地として今の地を拝領再営す、後享保十八丙申年三月類焼、古記録大半焼失し由緒詳かならざるも、大猷院より歴世昭徳院に至る迄、将軍斃去の時は、献経拝禮、施物を拝領し、将軍嗣立の節は時服一領づつ拝領すること長く例なりき。
金毘羅権現。境内東南の一隅に鎮守堂あり、金毘羅大権現を勧請す、尊天(木像)は元禄年間讃岐國丸亀城主京極家寄附の神體にして、明治初年に至るまで今の地に社殿を建てて崇敬したるも、神佛混淆禁止の達令に基き、一時社殿を取崩して世の惑を避けたるが、素と金毘羅大権現は佛教中のものなれば、明治十二年に至り宮の允を得て、社殿二間三尺二間を復舊し、例月十日祭典を執行し、諸人の参拝を許すこととなれり、方今商人の都合あればとて一日繰延べて十一日となす、又住職の話に今の虎の門琴平神社も明治初年京極家の縁故にて其管理方を同家より當寺に依託せられしことあり、又當社再興の際、琴平神社は殊に建設費を資助せりと。
當社に石の鳥居(明治十七年二月石工酒井八右衛門寄進)を建つ、又神楽堂(二間に三間、明治三十二年新築)あり、内陣に金毘羅大尊天の縦額掲げあるにも拘らず、金刀比羅神社と信じて奉納せるもの一にして足らず、寺僧の與り知らざる所といへど、神佛再び混淆するなきを欲す、敢て信徒に告ぐ、尊天は佛なり、紅白の餅を供する勿れ、佛は御供を饗けざるなり。
摩利支天。鎮守堂に安置す、元の泰定三年(本朝嘉暦元年)福州の人清拙大鑑禅師渡来の時、護持して之を建仁寺塔頭に鎮座せし尊天の分體なり、明治十八年迎へて之を勧請す。
境内。本堂七間三尺六間四尺書院六間三間庫裡五間四間三尺土蔵一間三尺三間等ありて境内狭からず、庭に萩を植ゑ、池あり、又楓樹あり、西隣曙町なる土井子爵の邸地に接して、満庭の飽きろ坐ろに雅致あり。
墓地。九十五番地は其墓地なり、明かの墳墓多し。三宅観瀾、栗山潜峰、稲葉迂斎、鵜飼稱斎、中邑元禮、鵜飼金平、坂井伯元、荘恬逸、恩田鶴城、餘吾古庵。(東京名所図会より)


龍光寺所蔵の文化財

  • 儒学者の墓
  • 「早春賦」の作詞家吉丸一昌の墓

儒学者の墓

栗山潜鋒の墓
寛文11年(1671)〜宝永3年(1706)。江戸中期の儒学者。山城国淀の人。潜鋒は号。桑名松雲に学び徳川光圀に招かれ「大日本史」の編纂に従事する。のち、彰考館総裁に抜擢された。
三宅観瀾の墓
延宝2年(1674)〜享保3年(1718)。江戸中期の朱子学派の儒学者。京都の人。はじめ浅見絅斎、のちに木下順庵に学び木門十哲の一人といわれた。元禄12年(1699)徳川光圀に仕えて彰考館に入り、「大日本史」の編集に従事する。のち彰考館総裁となり、さらに新井白石の推薦を受けて幕府の儒官となる。著書に「中興鑑見」「烈士報讎録」などがある。(文京区教育委員会掲示より)

「早春賦」の作詞家吉丸一昌の墓

明治6年〜大正5年(1873-1916)国文学者・作詞家
現大分県臼杵市で生まれ、苦学して東京帝国大学国文科を卒業した。上京時の一時期、この龍光寺に身を寄せた。
明治42年(1909)東京音楽学校の教授として招かれ、唱歌の編集に携わったが、徳育的な文部省唱歌に飽きたらず、言文一致の子どもの目線にたった「新作唱歌」全10集を明治45年から大正3年にわたり発表した。
作曲は、東京音楽学校を卒業した若い作曲家を起用し、「おたまじゃくし」「蛍狩」「早春賦」などを作った。これらは、後の童謡運動のさきがけとなるものであった。
その代表作「早春賦」は「新作唱歌」第3集に収録され、中山章作曲による美しいメロディーにのり、大正2年に発表された当時から女学生を中心に歓迎され、今も広く親しまれている。
大正5年(1916)3月7日、心臓発作のため、駒込動坂町(現千駄木四丁目)の自宅において、43歳の若さで急逝した。今は、縁のあった龍光寺に眠っている。(文京区教育委員会掲示より)


龍光寺の周辺図


参考資料