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金地院|港区芝公園にある臨済宗南禅寺派寺院

金地院の概要

臨済宗南禅寺派寺院の金地院は、勝林山と号します。金地院は、德川家康公を開基に仰いで、特賜圓照本光国師以心崇伝和尚が元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永16年(1639)当地へ移転したといいます。以心崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に黒衣の宰相と称されたといいます。寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けています。昭和新撰江戸三十三観音霊場28番、東京三十三観音霊場5番札所です。

金地院
金地院の概要
山号 勝林山
院号 金地院
寺号 -
本尊 聖観世音菩薩像
住所 港区芝公園3-5-4
宗派 臨済宗南禅寺派
葬儀・墓地 -
備考 南禅寺東京出張所、昭和新撰江戸三十三観音霊場28番、東京三十三観音霊場5番



金地院の縁起

金地院は、德川家康公を開基に仰いで、特賜圓照本光国師以心崇伝和尚が元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永16年(1639)当地へ移転したといいます。以心崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に黒衣の宰相と称されたといいます。寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けています。

「芝區誌」による金地院の縁起

金地院 芝公園第二十一號地八番
臨済宗南禅寺派に属し、勝林山と號する。「金地禅林世外勝境」と刻した石門を入り、左折すると本堂がある。慶長十三年家康は其政治的顧問として本光國師崇傳を駿府城内に呼び寄せ、其居寺として同十五年城内に一院を創立し、これを金地院と稱した。元和二年江戸城の落成と共に、同寺を江戸城内楓山に移し、寛永十五年崇傳示寂の後、同年五月現在の場所に轉じた。従つて本寺の創始は元和五年と云はれ、開基を家康、開山を本光國師崇傳とする。崇傳は一色紀伊守秀勝の子、家康に知られて天下僧録司となり、寺社の政に任じ、兼て政治の顧問となり、法令外交文書等其手に成つたものが少なくない。當時の隠れたる緇衣政治家として有名である。本寺の寺領は元禄七年に七百石となり、而も禅宗五山十派に相當する格式を有し、開山以来何れの寺にも属しなかつたが、明治四年南禅寺派に属することとなつた。本院の本尊は宋人陳和郷の作といはれる観世音菩薩で、なほ開山本光國師の木像もある。國師の手に成つた「國師日記」四十八冊、「異國日記」七冊、「諸條目案」四冊、「舊記録」三百冊、九條法衣一肩、涅槃像(明人思恭筆)一幅、開山肖像一幅、寒梅(探幽筆、崇傳賛)一幅、達磨(可能常信筆)賛幅對、踞地獅子(同上)一幅、「當院由緒記」其他を秘蔵し、史家から珍とされてゐる。(「芝區誌」より)

江戸名所図会による金地院の縁起

勝林山金地院
増上寺の西切通の上にあり。京師南禅寺の塔頭にして南禅寺此宿寺なり。五山の僧録と稱す。本尊は唐佛の聖観世音菩薩なり。或人云宋人陳和卿の作なりといふ毎年十八日観音懺法修行す。
開山を大業和尚と云。其頃碩学なり。それハ五山の僧録司に命せられ評定衆を加へ給い寺社の訴へを決断せしむ。都留の毛衣と云草神に古ハ寺社裁評の事金地院用ひらるる寛永中より武家の職となる云々。
境内に青葉楓と称する古木ありと申候今は焼亡くしてなしといへり。此木も昔當寺御城内にありし頃の物ゆへ後此地へ栽るといへり。
閻魔王此石像は塔頭二玄庵の前にあり。宝永の頃南部の領主霊尓に依り彼地より麻布の別荘に搖され再ひ威霊あるにより又ここに安置すといふ。
金地院と書せし三大字の額を水雲寫とあらむ。方丈同涬溟筆薦福殿岩元雄の書、塔頭二玄庵の額も同筆なり。
本尊観世音の像は大の月三月續たる中の月の十八日小ハ開帳あり。(江戸名所図会より)


金地院所蔵の文化財

  • 堀杏庵の墓
  • 近藤周斎(近藤勇の養父)墓

金地院の周辺図


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