霊應山福聚院|小石川七福神の大黒天
福聚院の概要
浄土宗寺院の福聚院は、霊應山鎮護寺と号します。福聚院は、安永3年(1774)伝通院末として当地に創建したといいます。本尊の大黒天像は、小石川七福神の大黒天です。
山号 | 霊應山 |
---|---|
院号 | 福聚院 |
寺号 | 鎮護寺 |
住所 | 文京区小石川3-2-23 |
本尊 | 大黒天像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 福聚幼稚園併設、小石川七福神の大黒天 |
福聚院の縁起
福聚院は、安永3年(1774)伝通院末として当地に創建したといいます。本尊の大黒天像は、小石川七福神の大黒天です。
「小石川區史」による福聚院の縁起
浄土宗鎮西派、傳通院末。本尊大黒天、阿彌陀如来。江戸時代には傳通院の末院で、安永四年の開創と云ふ。本尊大黒天は江戸時代より有名で、『江戸名所圖會』所載の縁起に依れば、三國傳来の靈佛で大黒、多聞、辨天、三神一體の尊影で有る。孝徳天皇の御宇、高麗國の大臣録来の土古が我國に携へ来つたものを、明和年間傳通院の豊譽靈應聖人が感得して此處に安置したのだといふ。
江戸時代以来、甲子の日は参詣者が特に群衆し、今も甚だ盛んである。維新の後本寺より獨立して一寺となつた。(「小石川區史」より)
文京区史跡さんぽ実施報告書による福聚院の縁起
福聚院(大黒天)
福聚院は伝通院の末院で、本尊は三国伝来の大黒天である。三国伝来とは、インド、中国、韓国を経て、我が国に伝来した由緒深い大黒尊像である。寺伝によれば、この大黒尊像は第36代孝明天皇の時代に、高麗の大臣、録来の土古という人が日本に帰化し、朝廷に仕えた際に護持した大黒天であるといわれている。その後江州(近江国)蒲生郡より江戸に移され、伝通院第36世霊応上人が現在の福聚院の地に祀り、江戸七福神の一つとして知られるようになった。
この大黒天は身に甲冑を着用し、外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を護持して、福録をあたえるといわれていた。特に、60日毎に回ってくる、甲子の日には参拝者も多く、縁日もたった。
永井荷風の作品に「最初のロマンチズムを伝えてくれたのは大黒天の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世物と辻講釈の爺さんとであった」とある。
今日でも甲子の日には家内繁栄、商売繁盛、心願成就、病気平癒、交通安全、厄除祈願などの護摩札祈願をしている。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)
福聚院所蔵の文化財
- 木造・大黒天坐像一軀(文京区指定文化財)
木造・大黒天坐像一軀
像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれてて、見るべきものがある木造彫刻といえる。
特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財である。
大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。
江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。
しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。
伝通院山内 福聚院 大黒天(文京区教育委員会掲示より)
福聚院の周辺図
参考資料
- 「小石川區史」
- 「文京区史跡さんぽ実施報告書」