中峠八幡神社|我孫子市湖北台の神社
中峠八幡神社の概要
中峠八幡神社は、我孫子市湖北台にある神社です。中峠八幡神社の創建年代は不詳ながら、康平年間に八幡太郎義家が奥州征伐の際当地二本榎に宿営、そのあとに「八幡大菩薩」と書かれた白旗がのこされているのを奉斎して創祀したといいます。天文10年(1541)芝原城主となった河村出羽守は、当社を居城の鎮守としたといい、江戸時代には村の鎮守社だったといいます。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命、速須佐之男命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 千葉県我孫子市湖北台8-16-2 |
祭日 | - |
備考 | - |
中峠八幡神社の由緒
中峠八幡神社の創建年代は不詳ながら、康平年間に八幡太郎義家が奥州征伐の際当地二本榎に宿営、そのあとに「八幡大菩薩」と書かれた白旗がのこされているのを奉斎して創祀したといいます。天文10年(1541)芝原城主となった河村出羽守は、当社を居城の鎮守としたといい、江戸時代には村の鎮守社だったといいます。
「我孫子市史」による中峠八幡神社の由緒
古来の伝説で、康平年間に八幡太郎義家が奥州征伐のとき当地二本榎に宿営し、そのあとに「八幡大菩薩」と書かれた白旗がのこされているのを発見して奉祀したのが当社のおこりといい、付近にある元日の井戸はその白旗を洗い清めた井戸と伝承されている。境内には八幡公旗立ての松とよばれた樹令千余年の老松があったが、明治初年に枯れ、のこっていた松も大正六年に大風で吹き倒された。なお、かつての鎌倉道が当社の南の林に沿って東西に通じていたという。しかし、今は一帯の開発が進み、湖北台の住宅街となっている。
天文十年(一五四一)芝原城主となった河村出羽守はこの社を居城の鎮守とした。そして御正体一面を奉納したという。それは八幡神を仏の姿であらわしたもので、当社が村の鎮守社となった江戸時代にも引きつがれ、社殿に懸けて礼拝されてきた。このような神仏習合の信仰は江戸時代を通じて一般的に行われてきたのであるが、明治維新に神仏分離令が出され、当社もそれに従って御正体を社殿から取りはずすことになった。しかし、それを廃棄しないで、氏子の手で護持することとし、いまになお頭屋持廻りで大切に保存されている。こうして、中世の貴重な文化財が伝承されたのはまことに幸いであった。
明治の「神社明細帳」には、「社殿間数 間口弐間 奥行壱間三尺」とあり四十一年増築として、「拝殿 間口四間 奥行弐間 及び 渡殿 間口壱間 奥行二間」が追記してある。ここに社殿とあるのは現在みる本殿である。嘉永六年(一八五三)に改築された流造、瓦葺の建物で、外壁の板彫刻など装飾を多用した建築となっているのは江戸時代後期における社殿建築の特長として注目される。いま本殿は覆屋をかけ、塀をめぐらして保護されている。拝殿は切妻造、向拝付で、拝殿及び渡殿は大正九年のころ修理されて今日に至っているという。
鳥居は、石造明神鳥居で、本殿改築と向じ嘉永六年の造立である。(「我孫子市史」より)
中峠八幡神社の周辺図
参考資料
- 我孫子市史