柴崎神社|我孫子市柴崎の神社
柴崎神社の概要
柴崎神社は、我孫子市柴崎にある神社です。柴崎神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の際に当社で戦勝祈願をしたと伝えられ、平安時代には平将門の祈願所に、次いで相馬一門の守護神とされてきたといいます。羽黒社・妙見社として柴崎村の鎮守だったといい、明治13年柴崎神社と改称、村社に列格したといいます。
社号 | 柴崎神社 |
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祭神 | 天御中主神 |
相殿 | 素盞鳴尊、蒼稲魂尊、日本武尊、別雷命、金山彦命、大山咋命 |
境内社 | 北野天満天神・八坂・香取神社・水神宮、三峰社、八幡社 |
住所 | 千葉県我孫子市柴崎174 |
祭日 | - |
備考 | 旧村社 |
柴崎神社の由緒
柴崎神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の際に当社で戦勝祈願をしたと伝えられ、平安時代には平将門の祈願所に、次いで相馬一門の守護神とされてきたといいます。羽黒社・妙見社として柴崎村の鎮守だったといい、明治13年柴崎神社と改称、村社に列格したといいます。
「我孫子市史」による柴崎神社の由緒
当社の草創は明らかでないが、日本武尊が東征のときここに武運長久を祈られ、住民が軍旅をねぎらったと語り伝えている。平安時代には平将門の祈願所となったといい、ついでは相馬一門の守護神とされてきた。境内で永仁六年(一二九八)銘の板碑の断片が発見されたが、それは市内で最も古い年号の板碑で、この地における祭祀の歴史の一端が知られる。やがて柴崎左馬督が社殿を修築し、弘治三年(一五五七)相馬五郎重胤は陸奥の検断職に補されて常陸国行方郡大田に移ったとき当社の分社を祀った。永禄四年(一五六一)には柴崎城主荒木三河守が社殿を修復し、天正元年(一五七三)太刀を奉納した。江戸時代になって、寛文五年(一六六五)に当地を加給された旗本初鹿野伝右衛門は大身鎗を奉納、ついで寛文十一年(一六七一)当地知行となった新見弥一郎正徳は弓一張を進献するなどの事蹟が伝えられている。新見家は源義家の後裔といわれ、境内の御墓山はもとその墓所であった。
のち、明和七年(一七七〇)に訴訟があったが、その訴状には「当村鎮守羽黒妙見両社壱ヶ所、其外水神天神駒形大明神天王四ヶ所、都合五ヶ所御座候、社地の義ハ何れも御料私領三ヶ村境、除地ニて何村除地と申儀無御座、三ヶ村鎮守氏神と申昌来り、社修覆の儀ハ是迄三ヶ村ニて仕来り」とみえる。ここに三ヶ村とあるのは当時の柴崎村が御料と私領で三分されていたために三村といっているのであって、当社は柴崎村全体の鎮守であり、氏神ともいって奉祀されていたことが分る。また、この訴状にあるように、当社は妙見社と称されており、右の訴状には「拾ヶ年程以前鎮守妙見の像紛失仕候間、私共村内一同掛銭致し当寅(明和七年)夏中、妙見木像建立仕、私共一統氏子ニ相違無御座候事」とあって、妙見像を奉斎していたことも明らかである。
それが明治維新にともなって廃仏毀釈され、社名も北星社と改められたが、さらに十三年には柴崎神社と称するようになった。
明治の「神社明細帳」には、村社柴崎神社、祭神天御中主命と記されている。
なお、「社殿間数 間口三間 奥行弐間三尺」とあるが、当時の社殿は羽後出身の坂田氏の造作といわれる。それが、明治三十五年に暴風で大木が倒れかかって社殿が損壊した。そのために再建することになり、「社殿間数 間口弐間 奥行壱間半」及び「拝殿間数 間口四間壱尺 奥行弐間三尺」の旧社殿ができたのであった。なお、当時の基壇の石には「正心講社寄附、旧拝殿修繕、社務所一棟造作悉皆(以下略)、明治四十二年十一月」の刻銘があった。この社殿は、昭和二十四年に瓦の葺替えが行われるなど、維持の努力が行われてきたが、昭和六十二年に現社殿の新築成って面目は一新し、十月十八日に遷宮祭が執行された。(「我孫子市史」より)
柴崎神社の周辺図
参考資料
- 我孫子市史