延命寺|我孫子市布佐にある真言宗豊山派寺院
延命寺の概要
我孫子市布佐にある真言宗豊山派寺院の延命寺は、求宝山医王院と号します。延命寺は、忠変僧都が文禄2年(1539)に開山したといいます。第五世権大僧都隆宣の代には、虚空蔵堂、釈迦堂、観音堂、客殿、庫裡を備えていたといいます。
山号 | 求宝山 |
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院号 | 医王院 |
寺号 | 延命寺 |
住所 | 我孫子市布佐2318 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
延命寺の縁起
延命寺は、忠変僧都が文禄2年(1539)に開山したといいます。第五世権大僧都隆宣の代には、虚空蔵堂、釈迦堂、観音堂、客殿、庫裡を備えていたといいます。
「我孫子市史」による延命寺の縁起
当寺の草創由来について、明治の「寺院明細帳」には「確証ナシト雖モ古老伝説ニハ行基菩薩ノ作ニシテ往古大和国平群郡法隆寺境内二在リシヲ文禄二年(一五三九)巳ノ三月当寺開山忠変僧都四国西国巡拝ノ砌リ由緒アリテ彼ノ寺ヨリ迎来り当地二堂宇ヲ設ケ安置セシヨリ霊験尤多シ故二信仰ノ輩追々檀中トナリ右忠変ヲ開山トナシ一寺建立ノ由」と書き出されている。
なお寛永七年(一六三〇)の検地で「寺内壱反壱畝歩」の除地があったことが知られているし、寛永八年起草の過去帳もある。
寺地は、利根川の改修にともなって背後が削られ、土手に接する状態になっているが、寺領はほぼ確保されてきた。
寺院の建物は、貞享元年(一六八四)三月二十一日に羅災、元禄四年(一六九一)に再建された。宝暦十二年(一七六二)の「御法統願書」には、虚空蔵堂五間四間、釈迦堂三間四間、観音堂方三間半、その他客殿堅十間横六間、庫裡堅五間横三間、惣門一宇と記されていて、当時相当な規模であったことが知られる。それは第五世権大僧都隆宣代のことで、「本堂霊仏客殿再建仕候」とあり、布川徳満寺との本末関係も当時成立した。
そののち、安永三年(一七七四)再び堂宇が類焼した。幸い虚空蔵像は無事で、堂字は天明三年(一七八三)五月再建された。ただし、翌四年の「延命寺住物改帳」をみると、客殿七間五間及び観音堂三間二間、台所七間四間半については隆宣建立とあって被災しなかったようである。虚空蔵堂については、四間四間、弘慶建立とあり、弘慶は天明三年六月二十日示寂と記されているので、類焼の厄にあったのは虚空蔵堂であったと分るとともに、釈迦堂は記載がないので、再興をみなかったらしい。
明治年代になって、十年に客殿が再建された。「寺院明細帳」には、「本堂間数間口三間奥行三間客殿間数間口四間四尺奥行五間三尺庫裡間数間口四間三尺奥行七間附向拝葺下間口九尺奥行六尺とあるほかに、境内仏堂二宇として「阿弥陀堂、本尊阿弥陀如来但木像、由緒、此弥陀ハ当寺七世隆宣法印守本尊ニシテ宝暦年中堂宇ヲ結ビ安置セリ、建物間口四尺奥行壱間」、「大師堂、本尊弘法大師但石仏、由緒、安永申年六月願主光音建立之、建物間口四尺奥行壱間」と記されている。これらのうち、阿弥陀堂安置の阿弥陀像は、文政十年(一八二七)の角柱石標に「六阿弥陀第二番」とあるのに相当すると思われるが、明細帳では、堂宇の記載が抹消されている。それは、明治三十七年のとき類焼したためであろう。しかし、現虚空蔵堂の須弥壇の下に数体の破損像が保存されている中に、阿弥陀像一体がある。像高二三・五㎝彫眼、金彩、来迎相の立像で、両手先が欠けているが、付属の光背もあり、破損した台座や厨子の残欠材ものこっていて、六阿弥陀第二番の像であろうと考えられる。
なお、虚空蔵堂須弥壇下に保管されている破損仏の中に獅子に乗る文殊菩薩像の残欠材がある。それは文久二年(一八六ニ)の什物改帳に「文殊菩薩一体」とあり、明治二十一年の什器帳に「文殊菩薩木仏坐像壱体、御丈ケ九寸、但布川村徳満寺十七世二値憧、作人京都建仁寺町福岡宗慶」とあるものに相当する。その像も両腕を欠き、台座なども壊れているが、台座の裏に「大聖文殊、于時海珠山住、法印覚雄房日憧生年卯也、一代守本尊」、枠木に「寛政六寅星(一七九四)孟春吉日、仏工京都建仁寺町福岡宗慶作」の墨書があって、什物帳等の記録と符合する。仏工宗慶については未詳であるが、蓮華座はほとんど失われているものの葺上げ式であるなど、やや古作とみられる。
明治十五年に、薬師如来堂が建立された。それは旧本堂である。天明四年の什物改帳には、「本尊薬師如来、隆宣細色」とあるので、薬師如来像は天明四年よりかなり以前から存在していたわけであるが、薬師堂と称された建物はなかった。安永四年(一七七五)の相馬霊場創設に当りて、当寺は第二十四番土佐東寺写し、本尊虚空蔵とされている。そのためか、当寺は、ときによって本尊虚空蔵、本堂虚空蔵堂とされることもあるが、什物帳では、薬師如来像を最初にあげていて、本尊は薬師如来であり、それを安置する本堂を薬師堂と称して、ときに本堂と称されていた虚空蔵堂と区別したのであろう。
現在の本堂は、昭和六十一年に改築落慶をみた。七間と五間半の規模で、入母屋道の屋根に唐破風の向拝がついている。内部は六室の前面に廊下があり、中央奥の間を仏間として、仏間には円柱が用いてある。仏壇には高欄をつけ、仏間の中央に大壇を据えて天蓋を垂れ、礼盤、脇机を配して、修法に備えるなど、堂内の荘厳が整っている。
本尊は、薬師如来の定印坐像で厨子に安置されている。明治二十一年の什器帳に「薬師如来、木仏坐像弘法、興教両大師像は、本尊の両脇にそれぞれ厨子に納めてある。椅子の坐像で、文政九年(一八二六)の含流新寄付改帳に「一、両大師細しき、伊勢産十左門建立仕候」と記されたもので、いままた補修彩色して真新しい。
他に、天明四年(一七八四)の什物改帳には隆宣代のものとして、地蔵像、観世音像、八祖大師画像、不動明王画像、十二天画像等の記載をみるが、地蔵像が虚空蔵堂の脇壇に安置されている以外は多く災厄で失われたようである。
つぎに、虚空蔵堂は、明治三十七年四月二十三日の布佐の大火のとき、飛火で類焼した。茅葺であったためである。このとき、薬師堂(旧本堂)はのこった。しかし、大師堂は焼損し、とりあえず仮堂がつくられた。そして、虚空蔵堂の再建が企てられたが、再建はなかなか困難で、苦心経営の勧募がつづけられ、ようやく大正十年になって起工の運びとなった。しかし、大正十二年の関東大地震で工事中の建物が倒壊し、工事は中断した。このような経過で、現堂の建築には十数年を費し、昭和八年にようやく竣工をみたのである。
現在の虚空蔵堂は、柱間三間三間で三面に縁をめぐらし、入母屋造、銅板葺の屋根の前面を葺下ろして向拝としている。内部は、中央間の奥二間を板敷とし、須弥壇に秘仏の虚空蔵本尊を納めた厨子が安置されている。
本尊厨子は宮殿厨子で開扉されることがないが、その前に厨子入の前立像が置かれ、また石井三郎画伯筆の同尊画像がある。前立像は、像高二四㎝、台座及び光背の全高五〇㎝、金彩の坐像である。虚空蔵は智慧を授けてくださる仏といわれ、十三参りの風習がある。像容、持物はいろいろであるが、当寺の像は左手に宝珠、右手に剣を持っている。
須弥壇の左右には、不動明王坐像と愛染明王坐像が安置してある。この二尊像は文政九年(一八二六)の寄付改帳にそれぞれ「箱厨子、壱体」と記されているものに宛てられよう。
須弥壇は朱塗高欄付で「堤防補強昭和二十九年四月移転記念」の銘がある。虚空蔵堂はこのとき移動し、一部修造されたという。
なお、堂内には、文政三年(一八二〇)総檀中施入の鰐口、文政十二年(一八二九)寄進の華鬘、天保十一年(一八四○)総檀中施人の鐃鈸などが保存されており、弘化四年(一八四七)と昭和三十三年寄進の常夜燈台二対などがある。
大師堂は、さきに記したように、明治三十七年に焼損して以来仮堂のままであった。ようやく昭和十年に再建をみたのが現在の建物で、方一間、切妻造、瓦葺の尾根の正面を唐破風にして向拝を覆っている。この大師堂に並ぶ小形堂の中の一棟には石造の観覚光音坐像がみられる。光音石像は高さ三四㎝で、像の背面に「石工三代大塚兼吉刻」とあり、地元布佐の石工の手になったものと知られる。(「我孫子市史」より)
延命寺の周辺図
参考資料
- 我孫子市史