勝蔵院|我孫子市布佐にある天台宗寺院
勝蔵院の概要
我孫子市布佐にある天台宗寺院の勝蔵院は、西光山と号します。勝蔵院の開山開基は不詳ながら、文禄元年(1592)に創建、宝永2年(1706)法印孝順が中興開山したといいます。
山号 | 西光山 |
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院号 | 勝蔵院 |
寺号 | - |
住所 | 我孫子市布佐2285 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
勝蔵院の縁起
勝蔵院の開山開基は不詳ながら、文禄元年(1592)に創建、宝永2年(1706)法印孝順が中興開山したといいます。
「我孫子市史」による勝蔵院の縁起
文禄元年(一五九二)六月の創建という。開山、開基及び由緒沿革は、再々の災厄で古記録が失われて不詳である。
しかし、寛永七年(一六三〇)の検地に当り、寺内二反歩が除地になっているので、江戸時代のはじめには寺院として確立していたことが分る。歴代の住職は明らかでないが、現住は四十七世となっている。
当地の名主を勤めた小山家の先祖の五輪塔には、寛永年代のものがある。小山家の菩提寺は布川の来見寺というが、小山家が当地に移り住むようになって当寺の有力檀徒となったのであろう。
寺地は、手賀沼畔にかけての低地に臨む台地の端にあり、西南の方角に和田城址と伝承されている中世遺跡があって、その一角の和田塚から明応九(一五〇〇)年在銘の阿弥陀種子板碑が出土した。当院にもそれと同年代頃の板碑が保存されており、境内の一隅に常総系黒雲母片岩の板石に「和田氏墓」と刻んだ碑がある。その刻銘は文政二年(一八一九)の追刻であるが、石材は中世以前にさかのぼる旧材で、土地の歴史が偲ばれる。
明治の「寺院明細帳」には、「宝永二酉年(一七〇五)二月廿四日中興開山法印孝順再建仕」と記されており、さらに、境内仏堂四字のうちの観音堂と地蔵堂について、両堂とも「宝永二酉年本堂再建ノ砌リ孝順法印建立ノ由」と書き添えてある。
安永五年(一七七六)には、相馬霊場第三十七番土佐岩本寺写しとなり、本尊は聖観世音とされた。そして、大師堂は本堂前庭にあった鐘楼堂のあきに建てられていたという。それが大正四年に本堂の裏手に移されたのは、竹内神社にあった二十一番札所を当寺に移すことになったためで、そこには、三十七番と二十一番と二棟の大師堂が並んで建っている。碑文によれば、大正六年の記念碑に「第二十一番大師堂石塔喜捨芳名」が記され、同じ大正六年の碑に「大正六年十月一日暴風雨ノ為大師堂破損修繕並石橋新設」とある。こうしてみると、大師堂の維持管理にもいろいろなことがあったが、二十一番札所は、徴兵年齢の青年の参詣祈願がさかんであったという。
大正十三年には、御籠堂、説教所が建立された。本堂わきの石段を登ったところにそれらがあり、休憩ができる茶店もあって、そこから右へ一段高く登ると、二棟の大師堂があり、沼の方への眺望がひらけていた。
旧本堂及び庫裡について「寺院明細帳」には、「本堂間数間口八間奥行五間半、庫裡間数間口五間奥行八間半」とあるが、それは昭和初年に羅災して、昭和三年に現本堂が再建され、庫裡も新しくなっている。
現本堂は、寄棟造、瓦葦で、正面の屋根の中央部分を大きく葺下して向拝としてある。内部は、中央の奥を一段高くして仏間とし、仏壇には高欄をめぐらし、上方に唐破風をしつらえて仏堂風につくり、本尊を安置する。
本尊は、阿弥陀三尊である。棟札に「本堂落成本尊入仏請願成盛祈攸」とあって、その裏面に「阿弥陀三尊(ロロ焼)、焼失聖□□□(板木残)」と記されているのをみると、もと相馬霊場の本尊となっていた聖観世音は罹災して、板木(光背の一部か)をのこすのみとなったので、阿弥陀三尊を修復の上人仏して本尊とすることになったと理解される。
なお、須弥壇まわりに、木造聖徳太子立像、木造観音立像、石造如意輪観音像などが安置されており、脇の間には、もとの不動堂(一間半二間)にまつられていた木造玉眼の不動明王像及び「勝蔵院中興之祖香舜像」と貼紙に記されている僧形坐像が安置してある。
二十一番大師堂は、昭和五十一年三月十日の夜に羅災した。五十四年になってそれを再建するたあの協議が行われ、再建費を大いに勧募して、ようやく昭和五十八年に改築、落慶供養が行われた。旧堂は、三間と二間半の建物で、堂内に護摩壇があった。現堂は、方二間分の堂の奥に仏壇を付けたした入母屋造、瓦葦で、前面葺下しの向拝がある。仏壇には、新しく造立された石造大師像とともに、もとの石造大師像も保存されている。
三十七番大師堂は、切妻造、銅板葺で、向拝正面と堂背面が唐破風となっている。この堂も、二十一番大師堂が羅災したときに火を受けたので、一部に焼損した跡があるが、向拝虹梁の左の木鼻の獅子を新しく作るなどして、完全に修復された。(「我孫子市史」より)
勝蔵院の周辺図
参考資料
- 我孫子市史