正泉寺|我孫子市湖北台にある曹洞宗寺院
正泉寺の概要
我孫子市湖北台にある曹洞宗寺院の正泉寺は、大龍山と号します。正泉寺は、鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)の為に弘長3年(1263)真言宗法性寺と号して創建、君津真如寺の俊峰周鷹(永正3年1506年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。正泉寺七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺を、九世名翁全誉は日秀観音寺を開山するなど、宗門拡大に寄与する本寺格の寺院だったといいます。また、血盆経一部が手賀沼に出現したとの縁起があり、「血盆経」信仰の重要な拠点となっていた他、それが都部という地名の由来ともなったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所73番です。
山号 | 大龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 正泉寺 |
住所 | 我孫子市湖北台9-12-36 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正泉寺の縁起
正泉寺は、鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)の為に弘長3年(1263)真言宗法性寺と号して創建、君津真如寺の俊峰周鷹(永正3年1506年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。正泉寺七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺を、九世名翁全誉は日秀観音寺を開山するなど、宗門拡大に寄与する本寺格の寺院だったといいます。また、血盆経一部が手賀沼に出現したとの縁起があり、「血盆経」信仰の重要な拠点となっていた他、それが都部という地名の由来ともなったといいます。
「稿本千葉県誌」による正泉寺の縁起
大龍山正泉寺(我孫子)
同郡同上(東葛飾郡舊南相馬郡)大字都部字寺後にあり、境内千九百六十八坪、曹洞宗なり。寺傳に云ふ、康元中(或は弘長三縁癸亥なりと云ふ)北條時頼其の女法性尼の為に之を創建して法性寺と號す、後今の寺號に改めたり、もと真言宗なりしが、應永中今の宗に改めたりと。寛永十八年原善左衛門中興す、本尊地蔵佛は長さ五寸許の木像にして時頼の守護佛なりしと云ふ。(「稿本千葉県誌」より)
「我孫子市史」による正泉寺の縁起
正泉寺 湖北台九-一二
山号大竜山 曹洞宗 もと君津郡真如寺末
弘長三年(一二六三)鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)が留庵したとの草創伝説があって、時頼を開基とする。のち、千葉県君津郡富久田の真如寺より俊峰周鷹を迎えて開山とし、曹洞宗寺院となった。俊峰は永正三年(一五〇六)一月十四日寂、以来歴住四十世(あるいは四十一世か)を数える。また、中世末の手賀太守原兵右衛門尉胤次を開基とし、その位牌及び供養塔(石造宝篋印塔)がある。
七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺の開山、九世名翁全誉は日秀観音寺の開山となっており、十一世徳翁良高はことに声望があって修行僧の参禅するものが多く、寺勢は大いに隆盛した。寺蔵の縁起絵図(4図)には徳翁在住当時の状況に近いと考えられる寺観が描かれており、本堂廊下にかかっている殿鐘は徳翁の撰文になる天和三年(一六八三)の在銘遺品である。
しかし、明和初年(一七六四)に火災があって伽藍の旧観は失われた。その再建に当っては、旧書院を移して本堂とすることになり、およそ十年を経た安永三年(一七七四)に至り、諸像法器伽藍再興入仏供養が行われた。
ついで、安永四年に相馬霊場第七十三番移し、本尊地蔵尊として、讃岐出釈迦寺の土砂を運んで札所を創設した。
文化、文政年代には、光格天皇祈願所とされ、天保十二年(一八四一)には諸堂再建大鐘を期して万人講勧化を施行、翌天保十三年には仁孝天皇の梵鐘御寄進があり、鐘楼門その他の建立をみた。さらに、明治年代以降本堂、地蔵堂の修築が行われるなどして今日に至っている。
なお、当寺には、血盆経一部が手賀沼に出現してとの縁起があって、それが都部という地名の由来であるといわれている。血盆経は遠近の女人の信仰をあつめ、同経、同縁起、同和讃等が相ついで板行されたが、ことに紀州徳川家桂香院による天明三年(一七八三)書写奉納の血盆経、安政四年(一八五七)の「尾州大奥為御祈禱令開板者也」との奥書のある版木などがあって、信仰のさかんであったことが知られる。
明治の「寺院明細帳」には、「本堂間数間口拾三間 奥行六間三尺 庫裡間数間口五間三尺 奥行三間三尺 本玄関間数間口弐間半 奥行弐間」その他の境内仏堂四宇として、「願王堂(地蔵堂)」と「尼御僚(法性比丘尼墳墓)建物間口弐間 奥行弐間 大師堂間口三間 奥行壱間半 不動堂(三日月不動堂か)建物間口五尺 奥行壱間半」をあげ、さらに、「鐘楼門間口壱丈 奥行九尺 浴室間口弐間 奥行弐間 物置間口四間 奥行三間半 木小屋間口五間 奥行三間 東司 間口三間 奥行壱間半」とあって、江戸時代以来の概況を知ることができる。
これらの建物は、その後修築されたり、廃されたりしてきた。そうした中で、鐘楼門は北からの松並木の参道に建てられている。もと正泉寺の境内は手賀沼畔にまで及んでいて参道は南から通じていたが、沼の舟運にかわって街道筋からの参詣が便利になったためであろう。この参道の北限には東西にのびる濠の跡がみられるが、周辺地域は開発がすすみ、ことに南の方には団地ができるなどして、むかしの面影はない。
鍾楼門は、入母屋造、瓦葺の楼門で、扉はなく、自由に通りぬけられる。上階は、柱間正面三間、側面二間であるが、壁も扉もない吹抜けの構造で、天井裏の梁から梵鐘が釣ってある。天保十三年(一八四二)ころの建立で、もと当時の梵鐘があった。しかし、旧梵鐘はさきの戦時中に供出され、いまは昭和四十八年に新鋳された梵鐘に代っている。(「我孫子市史」より)
正泉寺所蔵の文化財
- 正泉寺の血盆経信仰資料(千葉県指定文化財)
正泉寺の血盆経信仰資料
『血盆経』は、血の穢れによって地獄に堕ちた女人の救済を説いたものです。室町時代中期までに、中国から日本に伝えられ、江戸時代には仏教のいくつかの宗派にわたり、女性の布教の一環として用いられるようになりました。
曹洞宗の正泉寺は、『血盆経』の信仰の重要な拠点で、「日本最初女人成仏血盆経出現第一道場」として知られています。鎌倉時代の弘長三年(一二六三)、北条時頼の息女にあたる法性尼により、法性寺という寺号をもって創められたと伝えられています。
「女人成仏道場」としての正泉寺は、公家や武家から一般の庶民まで、様々な女性の信仰を集め、広い範囲の信者の参詣を受け入れてきました。寺に参る女性は、『血盆経』の授与にあずかることで、成仏の願いをかなえられると信じられたのです。江戸時代後期には、同寺に対する金品の寄進者は、名古屋や京都・大坂など、東海や近畿の一帯にまで及びました。
戦後、曹洞宗の宗門では、『血盆経』が、女性を差別するものとして禁止され、一般に授与されることはありませんでした。昭和五十年代に入ると、特に女性史との関連において、その関係の資料の重要性が見直されています。
正泉寺の所蔵にかかる、『血盆経』の関係の資料は、「女人成仏血盆経出現図」「尼御寮法性尼生滅之図」「血盆地獄絵図」の三幅をはじめ、千丈実厳の撰文による『血盆経縁起』の一巻、桂香院の寄進による『血盆経』の二巻、経文や血脈や御影などに関する板木の多数を含んでおり、その信仰の実態を示す貴重なものをそろえています。(我孫子市教育委員会・正泉寺掲示より)
正泉寺の周辺図
参考資料
- 我孫子市史
- 稿本千葉県誌