医王山東福寺|海中より出現の俵薬師、紙本着色俵薬師縁起絵
東福寺の概要
曹洞宗寺院の東福寺は、医王山と号します。東福寺は、嘉祥3年(850)に、漁師が釣り上げた魚が枯木に変じてしまい、その枯木を俵に詰めると薬師如来が示現し、その薬師如来を祀り創始したと伝えられ、俵薬師と称されて著名だったといいます。江戸時代に山雄麟泰が曹洞宗寺院に改めて開山、慶安2年(1649)には徳川家光より寺領12石の御朱印状を受領しています。また当寺縁起を著した紙本着色俵薬師縁起絵は一宮町文化財に指定されています。
山号 | 医王山 |
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院号 | - |
寺号 | 東福寺 |
住所 | 長生郡一宮町一宮3686 |
宗派 | 曹洞宗 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東福寺の縁起
東福寺は、嘉祥3年(850)に、漁師が釣り上げた魚が枯木に変じてしまい、その枯木を俵に詰めると薬師如来が示現し、その薬師如来を祀り創始したと伝えられ、俵薬師と称されて著名だったといいます。江戸時代に山雄麟泰が曹洞宗寺院に改めて開山、慶安2年(1649)には徳川家光より寺領12石の御朱印状を受領しています。
「一宮町史」による東福寺の縁起
東福寺
大字一宮字薬師堂にあるが、もと一宮の字東村にあったと伝えられる医王山東福寺と称し、本尊は薬師如来である。堂宇は荒廃して現存しないが、徳川時代には相当の格式があったものらしく、慶安二年(一六四九年)家光のときから御朱印寺として寺領十二石の寄進を受けている。
創立年月は明らかでないが、縁起書に記載されるところによると、「第五十四代仁明天皇の嘉祥三年(八五〇年)三月一日、当寺の東の磯に魚が群集したので、人々は網をおろして引き揚げてみると魚は変じて枯木となった。枯木と知って人々は海中に投げかえすと、にわかに一老翁が出現し、"是れ即ち東方薬師瑠璃光如来也。汝等篤信せよ。われまた衆人愛敬の愛染明王なり" と告げて立ち去った。人々は不思議に思って、船板を敷きその上に枯木を俵につめて積みかさねると、薬師如来が姿を示現したので東福寺に安置して信仰するようになった。これが俗にいう俵薬師である。」というような伝承を伝えている。また、房総志料続編には、「一の宮の人語りしは、彼土の漁夫一日海に傍て行。米苞数十波に漂うを見る。一苞渚に近づく。是を捜に、小仏の薬師、幾という事をしらず。其人怪、遂に尽く持ちさり、東福寺という禅院の什器とす。俗に俵薬師と云是也。実に寛文年間の事也と、據に、是又土気領の村民尽く日蓮派となりし頃海中に投ぜしたものなるべし。」とある。この二つの伝承は、ともに俵薬師のいわれを伝えており内容としては同巧異曲であるが、時代に甚だしい差(八〇〇年以上)があるので別個の出来事の伝承であるかどうかは不明である。房総志料続編に、「土気領の村民…」とあるのは七里法華による日蓮宗の他宗排撃を指すものと思われるが、これは長享年間頃(一四九〇年代) のことで寛文年間まで約一八〇年を経過しているのでちょっと信じられない憶測と思われる。しかし、薬師如来の出現や嘉祥年間の伝承のあるところよりみて、古くは密教系寺院であったようである。曹洞宗寺院としての開山は、西暦一六〇〇年代に真里谷真如寺系の山雄麟泰によってされている。曹洞宗開山以前に存在していたことは、元亀元年(一五七二年)に平正木大謄種成の寄進した鍔口一懸があったことによっても知ることができる。(「一宮町史」より)
東福寺所蔵の文化財
- 紙本着色俵薬師縁起絵(一宮町指定文化財)
紙本着色俵薬師縁起絵
この縁起絵は東福寺本尊の東方薬師瑠璃光如来(俵薬師)の由来を描いたものである。寛文年間に、俵に詰められた仏像数百体を引き上げ安置したことから「俵薬師」の名前がつけられた。
縁起絵は画面全体を大きく上下二つに分け、上部には東福寺を中心にこの地域の神社や寺を描き、中央から下には太東岬や海中に漂う仏像を地曳き網で引き上げる人々、武士、農民、上人、興味深いことに遊女などが表現されている。また画面右側には、小屋の中に薬師如来立像(俵薬師)と愛染明王立像が祀られ、その功徳を教え説く僧侶の姿も見える。
制作年代は江戸中期から後期で、作者は「信政」の落款が見られるが判然としない。大きさは縦一五五・五センチ、横一五三・八センチの大きなもので、毎年一回、八月二十六日の東福寺施餓鬼会に開帳・公開される。
なお、東福寺が開かれたのは、平安時代嘉祥三年(八五〇年)である。(一宮町教育委員会掲示より)
医王山東福寺の周辺図
参考資料
- 「一宮町史」