軍荼利山東浪見寺|軍荼利明王信仰
東浪見寺の概要
天台宗寺院の東浪見寺は、軍荼利山と号します。東浪見寺は、聖徳太子が鎮護国家のため、軍荼利夜叉明王の像を彫刻して安置して創始したと伝えられ、江戸期には九十九里沿岸の地引網漁業が盛んになり、漁業と結びついた軍荼利明王信仰として広く隆盛、軍荼利明王と記された約三十貫の大額や重量四十八貫の唐銅大茶釜等が寄進されたといいます。明治維新後の神仏分離令により、時の住職は寺を神社に改め東大神とし、受理されたものの、村民・信徒の猛反発に遭い、明治27年神社を廃して天台宗法楽寺附属仏堂となり、さらに昭和17年東浪見寺へ昇格、昭和19年法楽寺を東浪見寺へ吸収させたといいます。明治維新後、神社となった堂宇が、信者の反発により寺院に復した稀有な例です。また、本尊の軍荼利明王像は、一面八臂二足のうち六臂は切り取られてしまっていますが、平安末期か鎌倉初期の作と推定され、県文化財に指定されています。
山号 | 軍荼利山 |
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院号 | - |
寺号 | 東浪見寺 |
住所 | 長生郡一宮町東浪見3446 |
宗派 | 天台宗 |
縁日 | 祭礼1月28日 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東浪見寺の縁起
東浪見寺は、聖徳太子が鎮護国家のため、軍荼利夜叉明王の像を彫刻して安置して創始したと伝えられ、江戸期には九十九里沿岸の地引網漁業が盛んになり、漁業と結びついた軍荼利明王信仰として広く隆盛、軍荼利明王と記された約三十貫の大額や重量四十八貫の唐銅大茶釜等が寄進されたといいます。明治維新後の神仏分離令により、時の住職は寺を神社に改め東大神とし、受理されたものの、村民・信徒の猛反発に遭い、明治27年神社を廃して天台宗法楽寺附属仏堂となり、さらに昭和17年東浪見寺へ昇格、昭和19年法楽寺を東浪見寺へ吸収させたといいます。
「一宮町史」による東浪見寺の縁起
軍荼利山東浪見寺
大字東浪見字軍荼利にある。寺伝によると第三十三代用明天皇のとき聖徳太子が鎮護国家のため軍荼利夜叉明王の像を彫刻して安置したのが本寺の開基といわれ、その後、第四十四代聖武天皇の大同年間(八〇六~九年)に僧行基が勅を奉じて東国を遊化したとき軍荼利山を訪れ樟樹で再刻したものが現存の本尊であると伝えられている。しかし、現存の像は藤原時代の造像と指定され、厨子内に現存する隠居仏(頭部のみ)が奈良時代の彫刻の一部かも知れない。明治維新の廃仏毀釈の影響は、当寺の場合きわめて大きかった。古文書・什器は焼却され、木尊軍荼利明王(一面八臂像)も六臂を切り取られ胸前の二替のみの姿にされるという極端な排斥が行なわれた。このような排斥の原因については、明治二十六年十一月出願の「無格社東大神 社寺変更請願書」に、「当時の住僧亮文なる者、大いにその趣旨を誤解し、軍荼利明王の像を日本武尊の神像なりとし東浪見寺を廃し東大社と改称し度儀を旧宮谷県に出願したり。当時、一村信徒は不当の出願となし、種々苦情申立候得共当時殆んど廃仏の勢にあるを以て採用不相成。終に復飾聴許相成、亮文は武腰利貞と改名、本堂は東神社本肢となし庫裡は自分居宅に御下渡願。妻帯の上祠堂奉務致居候。」とあるとおり、明治一万年三月に政府の発令した神仏判然令の意を当時の住職が取り違えたところにあったもののようで、特に町内の神職や近郷の神職が行動した形跡はない。
明治維新前におけるこの寺の名称は、寛政六年および天保八年の土方八十郎の黒印状に、軍荼利山慈福院東隠見寺とあるのが本来の呼称で、俗には軍荼利堂といわれていた。維新後の変遷をみると、明治二年に、東大神と改称し、祭神日本武尊として宮谷県に出願し許可を得て無格社として登録された。軍荼利明王を信仰する信者たちはこの措置を了とせずして、数回にわたって請願している。初め明治九年二月十八日付願書を連署を以て提出した。これには、「篤と相取調候処全く軍荼利明王と紛れ無之、然るを誤って神体と見倣し候とは神仏相混じ候て御布規則に違戻致し不都合の儀と一同明解仕り候。今後神体東大明神像を元形通り軍荼利明王と成し厚く信仰仕度…」とあり、信仰対象が東大明神ではなく軍荼利明王であることを強調している。その後、約十八年間に渉り幾度かの請願をおこない、明治二十七年十二月に天台宗法楽寺附属仏堂とすることを認められ、法楽寺と合併の形式で軍荼利山瑠璃光院法楽寺と改称した。この実情は、東浪見寺の復興は許可にならず既存寺院の仏堂として承認された形であった。その結果は、誇りある由緒・伝承を信じ、身近な信仰対象として親しんできただけに地域住民の意に満たないものであった。一方法楽寺は荒廃して堂宇も存在しないまま、住職は軍荼利堂の復興に意をそそいだため、実質上は、東浪見寺の再興・法楽寺の吸収という形になった。昭和十六年宗教法人法の施行にともない当時の住職小安亮仙師は、軍荼利堂を分離し、東浪見寺へ昇格させたいことを申請し、昭和十七年三月十六日付で千葉県より許可された。さらに東浪見寺・法楽寺の合併を申請し、同十九年十二月二十九日許可になっている。このように根強い信仰として地域にとけこんだのは徳川時代中期になってからのようである。九十九里沿岸の地引網漁業が盛んになると共に、漁業と結びついた信仰として江戸・三浦半島・奥州方面など遠方の関係業者の寄進も多く、一時は隆盛をきわめたものであった。(中略)
また、寺宝として唐銅額・唐銅大茶釜があったが第二次世界大戦中に供出されて現存しない。唐銅額は、軍荼利明王と記された約三十貫の大額で、弘化四年三月、旗本土方八十郎源勝敬の寄進、江戸西村和泉守の鋳造であった。また、唐銅大茶釜は、重量四十八貫の大物で文化甲子年六月発起願主三枝半四郎 鋳物師は江戸神田太田駿河守藤原政吉の作であった。(「一宮町史」より)
東浪見寺所蔵の文化財
- 東浪見寺本堂(一宮町指定文化財)
- 木造軍荼利明王立像(県指定有形文化財)
- 軍荼利山植物群落(県指定天然記念物)
東浪見寺本堂
建物の大きさは、正面三間、側面四間、寄棟造りで屋根は当初、茅葺でしたが、現在は銅板葺となっています。建立年代については、元禄十年(一六九七)と享保八年(一七二三)の記録があり、この時代の建立と考えられます。
寺は、聖徳太子が軍荼利夜叉明王の、像を彫刻して安置したのが開基といわれ、神仏分離令のため明治二年(一八六九)に東大社と改称されましたが、昭和十六年(一九四一)に現在の軍荼利山東浪見寺となりました。
建物の特徴としては、向拝(本堂正面の張り出した部分)の彫刻、本堂内の須弥壇・宮殿の上部に天井まで組み上がった組物(柱上で軒を支える四角い桝形のものと舟形の肘木)の繊細かつ装飾的な造りで、純粋な禅宗様式となっています。
毎年一月二十八日には祭礼が行われ、本尊の御開帳があります。(一宮町教育委員会掲示より)
木造軍荼利明王立像
軍荼利明王は五大明王の一つで、宝生如来に対応する忿怒尊です。当像は東浪見寺の本尊で、像高は204cm、カヤ材の一木造りの像で、寺伝によると聖徳太子が鎮護国家のため、軍荼利夜叉明王の像を彫刻して安置したのが東浪見寺の開基といわれています。
明治初年の廃仏毀釈の影響で、像容は一面八臂二足の忿怒形でしたが、六臂は切り取られ、胸前の二臂だけが残されています。現容は風化虫害が進み、焔髪をつけた面相や肩からは体躯にまとっている腰裳など細部は明らかではありません。また表面の摩耗も激しく、顔の表情もわかりません。古様の簡略な造りで、表現の上でのもともと素朴なものであったと思われます。
作風は地方色の強いもので、平安末期か鎌倉初期の作と推定され、木造としては本県内で最古といわれています。
年に一度、1月28日の軍荼利山東浪見寺の例祭の際に、本尊として公開されます。(千葉県教育委員会掲示より)
軍荼利山東浪見寺の周辺図
参考資料
- 「一宮町史」