前原御嶽神社|船橋市前原東の神社

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前原御嶽神社|県指定文化財の木造蔵王権現三尊立像

前原御嶽神社の概要

前原御嶽神社は、船橋市前原東にある神社です。前原御嶽神社は、前原新田の開発に際し、江戸の両換商上東野藤四郎が、修験者林光院と共に御神体を奉安し、延宝年間(1670年代)に創建したといいます。この御神体・木造蔵王権現三尊立像は、千葉県有形文化財に指定されています。

前原御嶽神社
前原御嶽神社の概要
社号 御嶽神社
祭神 速須佐之男命
相殿 -
境内社 水神宮、稲荷神社、琴平神社、子安神社
住所 千葉県船橋市前原東5-43-1
祭日 10月19日
備考 -



前原御嶽神社の由緒

前原御嶽神社は、前原新田の開発に際し、江戸の両換商上東野藤四郎が、修験者林光院と共に御神体を奉安し、延宝年間(1670年代)に創建したといいます。

千葉県神社名鑑による前原御嶽神社の由緒

往時、蔵王権現と称していた。延宝三年一二月、上東野藤四郎が武蔵国江戸神田鍛冶町において両換屋を営む折柄、下総国千葉郡前原新田外三カ新田切り開きの時、西京巡行・新旧開墾の希望によって大和国吉野郡金峰山吉埜郷、御獄神社附属の修験者林光院同伴で、当地の祭神と崇め、延宝四年二月本社を創立する。明治維新に至って御嶽神社と改称、昭和三八年二月不審火により社殿焼失。同四〇年一〇月改築された。(千葉県神社名鑑より)

「船橋市史」による前原御嶽神社の由緒

(前原新田)
蔵王権現
現御獄神社。『県神明細』には「延宝甲寅年二月本社創立」とある。延宝二年に本殿を建てたというものである。当社の創立の経緯については、「上東野新助ノ事蹟」に「御嶽神社ハ元蔵王大権現ト称シ、(中略)延宝元年林光院釈仙龍ナル者江戸神田鍛冶坊ニ迎ヒ祭儀ヲ張ル、当時適々上東野新助ハ、嘗テ仙龍ヲ友トシ善シ故ヲ以テ、再ヒ之ヲ前原郷ニ迎へ、永ク新田ノ鎮守トナシ」云々とある。その後正徳五年に至り、林光院仙龍は老齢となったため、田喜野井正法寺に一切を譲り、江戸へ帰った。以後、明治に至るまで正法寺が蔵王権現の別当寺を勤めた。明治初年に御嶽太神と改称し、さらに間もなく御獄神社と改めた。(「船橋市史」より)

「千葉県千葉郡誌」による前原御嶽神社の由緒

御嶽神社
二宮村前原に鎮座す。正徳五年の勧請にして速須佐之命を祀る。本殿間口二間奥行一間三尺、拝殿間口五間奥行三間、境内三千二十一坪。境内神社稲荷神社、琴平神社、子安神社あり。氏子百十七戸なり。(「千葉県千葉郡誌」より)


前原御嶽神社の由緒

  • 木造蔵王権現三尊立像(千葉県指定有形文化財)

木造蔵王権現三尊立像

奈良時代の山岳修行者で修験道の祖と呼ばれる役行者小角が、吉野の金峯山で修行中に衆生(いのちあるもの全て)救済を願い、神仏を呼び出そうとしたところ最初に釈迦如来、次に千手観音、弥勒菩薩が現れました。しかし、それに満足せずさらに強力な仏の出現を祈ると、最後に現れたのが蔵王権現であったといわれています。日本古来の神と仏教が結びつく神仏習合の思想に基づき、蔵王権現は仏・菩薩が衆生救済のために、権(かり)の姿で日本の神として現れるという「本地垂迹説」の考え方から生まれた日本独自の神です。
中尊の蔵王権現の像高は96cmです。忿怒の形相が巧みに表現された重厚な秀作で、製作年代は平安時代後期までさかのぼると推定されます。両腕と両足は中世の後補と推定され、玉眼・光背・台座・宝冠などは近世の後補です。両脇侍の童子像の像高はどちらも58cmです。鎌倉時代の製作と推定され、落ち着きのある表情をしています。両像とも手首・台座などは後補です。3体ともヒノキ材の一本造で、内刳りを施しています。
この蔵王権現三尊立像は、前原新田が開墾された江戸時代の延宝年間(1670年代)に当地の草分けの一人東野新助が、江戸神田の修験僧林光院釈仙竜と共に前原に迎え、祀ったものと伝えられています。(船橋市教育委員会掲示より)

前原御嶽神社の周辺図


参考資料

  • 「船橋市史」
  • 千葉県神社名鑑