光雲山了源寺|天野中務大輔藤原朝臣匡親卿開山
了源寺の概要
船橋市宮本にある浄土真宗本願寺派寺院の了源寺は、光雲山傳翁院と号します。了源寺は、足利13代将軍義輝に仕えていた天野中務大輔藤原朝臣匡親卿(釈伝翁)が、義輝暗殺後に剃髪して出家し当寺を創建したといいます。歴代住職は近隣子弟の教育に尽力していたことから、数多くの筆子塚が建てられています。当寺鐘楼は、廃止された大砲射撃場の台座跡地に建てられたもので、江戸期には時を告げる「時の鐘」として公許され、跡地は船橋市有形文化財に指定されています。
山号 | 光雲山 |
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院号 | 傳翁院 |
寺号 | 了源寺 |
住所 | 船橋市宮本7-7-1 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
了源寺の縁起
了源寺は、足利13代将軍義輝に仕えていた天野中務大輔藤原朝臣匡親卿(釈伝翁)が、義輝暗殺後に剃髪して出家し当寺を創建、越前鯖江藩第7代藩主間部下總守詮勝の弟にあたる眞龍上人が中興したといいます。歴代住職は近隣子弟の教育に尽力していたことから、数多くの筆子塚が建てられています。
「船橋市史」による了源寺の縁起
(五日市村)
了源寺
浄土真宗(西本願寺派)。光雲山と号する。本尊は阿弥陀如来。『県寺明細』には「開基天正年間釈伝翁三宇ヲ創立ス」云々とある。天正年間(一五七三~九一)に釈伝翁が創立したというものである。釈伝翁は俗名天野匡親、初め禁裡上北面武士で、後室町幕府十三代将軍足利義輝の侍臣に転じ、義輝が暗殺されたため、剃髪して僧になったという。享保六年の船橋村の明細書上帳(表紙一部破損・以下『船橋村書上帳』)には、築地本願寺(中央区)の末寺で、境内は五畝六歩とある。境内には江戸時代三基、明治時代一基の筆子塚があり、歴代の中に学問の師匠として、近隣子弟の教育に尽くした住僧が多かったことを示している。最古のものは寛政五年に死去した中興第九世の超勝院釈実道真了大和尚の筆子塚である。なお、当寺の歴代や旧鐘銘等については『船橋市史現代篇上」に詳しく載せられている。(「船橋市史」より)
「船橋町史」による了源寺の縁起
了源寺
光雲山傳翁院了源寺眞宗本願寺派直末、永禄年間、公卿天野中務大輔藤原朝臣匡親卿の開基にして本尊阿彌陀如来は寶域大本山の成賢主座の力なり。第十七世大慈院眞榮上人は尊園親王の裔より茲に入り寺運を開興し、梵鐘を鑄造し、第十世義天大律師は支那に渡り佛道を修業し、十二世眞龍上人は時の老中間部下總守詮勝の弟にして但州村岡より入り當山を中興し今日に及べりといふ。(「船橋町史」より)
了源寺の縁起
- 鐘楼堂跡附和時計蜀山人筆(船橋市指定有形文化財)
鐘楼堂跡附和時計蜀山人筆
江戸時代、徳川幕府は大砲試射場を設けた。享保年間(一七一六~一七二〇)にはこの了源寺の脇に射撃の小屋が建てられ、谷津・藤崎方面へ向かって大砲射撃を行なった。射撃場を廃止した後、砲台の台座のあった場所に鐘楼堂が建てられ、幕府から「時の鐘」として公許された。その後、明治四年(一八七一)に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていた。
その「時」の基準と言われるのが当寺に保存されている和時計である。この和時計は真鍮製で、江戸時代中期を代表する狂歌・洒落本・滑稽本の作者で、船橋宿で鐘の音を聞いて詠んだ狂歌入りの掛け軸が、当寺に残されている。
煩悩の眠をさます時のかね きくやわたりに船橋の寺(船橋市教育委員会掲示より)
了源寺の周辺図
参考資料
- 船橋市史
- 船橋町史