葛飾八幡宮|市川市八幡の神社
葛飾八幡宮の概要
葛飾八幡宮は、市川市八幡にある神社です。葛飾八幡宮は、寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって勧請・創建、源頼朝や太田道灌、徳川家康など武人の崇敬を集めていたといいます。天正19年(1591)には徳川家康から社領52石の御朱印状を拝領、明治13年には郷社に列格、その後県社に列格していました。
社号 | 葛飾八幡宮 |
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祭神 | 応神天皇、神功皇后、玉依姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 天満宮、厳島社、尾上稲荷社、八坂社、浅間社 |
例祭日 | 9月15日から6日間、初卯祭:2月春分を過ぎた最初の卯の日、茅の輪神事:6月・12月 |
住所 | 千葉県市川市八幡4-2-1 |
備考 | 旧県社 |
葛飾八幡宮の由緒
葛飾八幡宮は、寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって勧請・創建、源頼朝や太田道灌、徳川家康など武人の崇敬を集めていたといいます。天正19年(1591)には徳川家康から社領52石の御朱印状を拝領、明治13年には郷社に列格、その後県社に列格していました。
市川市教育委員会掲示による葛飾八幡宮の由緒
葛飾八幡宮
寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来、武神として崇敬された。
治承4年(1180)源頼朝は阿波国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190-1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたという。
また、文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正19年(1591)には、徳川家康が社領として朱印52石を供御して崇敬している。
明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在した。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な建物である。また、山門の二王像は移されて、その後に左右両大臣像が置かれ随身門とよばれるようになった。この随身門は市指定文化財である。
本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また、寛政5年(1793)に発掘された元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえる。
当宮の祭礼は9月15日から6日間にわたって行われ、俗に「八幡のぼろ市」とよばれる近郷に名高い農具市がたち、一時は、関東一とまでいわれた。二月の初卯祭は湯立神事、湯立神楽、宮司舞などをもって祭事が進められる特殊神事の祭りである。(市川市教育委員会掲示より)
千葉県神社名鑑による葛飾八幡宮の由緒
創建は平安期、寛平年間で、宇多天皇の勅願により下総国総鎮守八幡宮として御鎮座。以来歴朝の御崇敬篤く、代々の国司、郡司をはじめ、国民の信仰深く、当国における葛飾文化、八幡信仰の中心となり、中でも平将門の献幣、源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇修復、徳川家康の御朱印地五二石の寄進等その尊信篤きものがあった。また、御主神応神天皇の御事蹟により、文教の祖神、殖産興業、殊に農業守護の神として近郷の信仰をあつめている。(「千葉県神社名鑑」より)
「稿本千葉県誌」による葛飾八幡宮の由緒
郷社・八幡神社
東葛飾郡(旧東葛飾郡)八幡町大字八幡字宮内に在り、境内四千八百九十三坪、誉田別尊・息長帯姫尊・玉依姫命を祀る。社傳に云ふ、寛平年中勅ありて石清水八幡を此処に勧請すと。建久年中源頼朝社殿を修復し爾後数次修補の事あり、天正十九年十一月徳川家康社領五十二石を寄附す、明治十三年十月郷社に列せらる。古来舊八幡町外八村(鬼越・北方・若宮・中山・小栗原・高石神・菅野・平田)の鎮守にして、社殿荘厳ならずと雖も周囲に石造玉垣を廻らし神楽傳・寶蔵・神馬堂・額堂・鐘楼・随神門等あり構造頗る供はれり。又種々の寶器・古文書を蔵す、末社十三座あり。明治三十九年十二月幣饌料供進指定。(「稿本千葉県誌」より)
葛飾八幡宮所蔵の文化財
- 千本公孫樹(日本国天然記念物)
- 梵鐘(元享元年銘)一口(千葉県指定有形文化財)
- 随神門(市指定文化財)
- 川上翁遺徳碑
梵鐘(元享元年銘)一口
この梵鐘は寛政五年(1793)正月十九日、境内のケヤキの大樹が暴風で倒れたさい、その株根から出土したものと伝えられています。
総高一一七・二㎝、口径六六・七㎝、池の間上下に型継ぎの跡があり、鐘身が三段に鋳上られ、それに笠形の部分と龍頭が組み合わされて鋳造されたものです。
上下帯は無丈で、乳は一区内に四段五列の合計八十個をつけており、二個の撞座は丸形の中に先のとがった八弁の蓮花文を刻み、龍頭の方向と平行に位置しています。
池ノ間には縦帯をはさんで銘文が陰刻されていますが、それによると、葛飾八幡宮は寛平年間(889-898)、宇多天皇の勅願によって建立されたこと、源頼朝の崇敬が殊に篤く、社殿は海(東京湾)に面して建てられていたこと等が知られます。
元享元年(1321)十二月十七日、右衛門尉丸子真吉によって寄進されたもので、この銘文は当時八幡宮の別当職にあった、法印智円が書いたものと思われます。元享元年は後醍醐天皇の治世で、特に正中の変(1324)元弘の乱(1331)と時代の激変する時にあたります。
またこの梵鐘の笠形の部分には字体の異なる細字で「応永二十八年(1421)三月廿一日」と三行に刻されていますが、この紀年については諸説があって明らかではありません。(市川市教育委員会掲示より)
川上翁遺徳碑
川上翁は名を善六といい、寛保二年(1742)一月、八幡村大芝原(現八幡二丁目)に生まれました。幼少の頃から祖父を助け、父に仕えて農業に励みましたが、祖父の代からの借財は、今まで通りの生活ではとても返済できるものではありません。そこで彼が思いたったのは、江戸に近い当地での梨栽培でした。
善六が梨栽培を始めたのは明和七年(1770)のことで、その後、美濃国(岐阜県)を訪れたおり、梨の良種を得て帰り、八幡宮の別当寺であった法漸寺の境内を借りて梨園を開きました。それが数年後見事な果実をつけ、江戸の市場で、高値で取り引きされるようになると、善六は村人にその栽培を奨励し、たちまち八幡一体には梨園が広がりました。これが「市川梨」の起りです。
祖父や父によく仕え、新しい産業によって家を興した善六の努力と親孝行が、広く世間に知られると、代官から褒美が下され、苗字と帯刀が許されました。また、善六は少年の頃から学問を好んで読書に耽り、後には漢学を志し、孟慶と号して村人に読み書きを教えました。
善六は梨栽培で財をなしても決して驕らず、温恭実直に世を送りましたが、文政十二年(1829)八月、八十七歳で歿しました。村人から「梨祖」と仰がれ、大正四年(1915)その遺徳を後世に伝えんと、市川梨発祥の地に建てられたのが、この遺徳碑です。(市川市教育委員会掲示より)
随神門
和様、木造単層切妻造で、正面柱三間・奥行柱二間の「八脚門」と呼ばれる構造形式をもち、柱・梁や軒を支える組物に特色があることから、市の有形文化財に指定されています。
かつて屋根は萱葺でしたが、現在は銅板に葺替えられ、軸部の塗替も幾度か、なされた痕跡があります。
この門は、明治維新まで当神社の別当寺であった、上野東叡山寛永寺の末寺、天台宗八幡山法漸寺の山門でしたが、明治維新のいわゆる神仏分離によって、随神門と改称し、両袖に安置されていた仁王像も、そのときに行徳の徳願寺に遷され、現在の随神が奉安されました。(境内掲示より)
葛飾八幡宮の周辺図