猫の足あとによる千葉県寺社案内

堀之内貝塚。市川市堀之内にある旧跡・名所

堀之内貝塚の概要

堀之内貝塚は、市川市堀之内にある名所旧跡です。堀之内貝塚は、下総台地西南端に位置する縄文時代後期から晩期にかけて(紀元前2,000~500年)の馬蹄形貝塚で、堀の内式土器の標式土器として著名です。東西約225m・南北約120mと大規模で、南は道めき谷津、北は千艘谷津、西ははさまれています。当地からは縄文時代後期前葉の縄文式住居址6軒、縄文時代後・晩期の屈葬人骨、仲伸葬人骨をはじめ、貝塚だけでなく土器、石器などが発見されており、昭和39年国史跡に指定されています。

堀之内貝塚
堀之内貝塚の概要
旧跡・名所名 堀之内貝塚
みどころ 国史跡
入場時間 (博物館)9:00~16:30
入場料 (博物館)毎週月曜日、祝日、12月28日~1月4日
住所 市川市堀之内2-15
備考 -




堀之内貝塚の縁起

堀之内貝塚は、下総台地西南端に位置する縄文時代後期から晩期にかけて(紀元前2,000~500年)の馬蹄形貝塚で、堀の内式土器の標式土器として著名です。東西約225m・南北約120mと大規模で、南は道めき谷津、北は千艘谷津、西ははさまれています。当地からは縄文時代後期前葉の縄文式住居址6軒、縄文時代後・晩期の屈葬人骨、仲伸葬人骨をはじめ、貝塚だけでなく土器、石器などが発見されており、昭和39年国史跡に指定されています。

境内掲示による堀之内貝塚について

国史跡
堀之内貝塚
堀之内貝塚は、千葉県北部に広がる下総台地の西南端にあり、縄文時代後期前半から晩期中ごろまで(約三八〇〇~二五〇〇年前)の、この地域の中心集落でした。堀之内といくのは、東にある古くからの集落の呼び名でここの場所のかつての地名は、国分村駒形でした。現在の住居表示は、市川市堀之内二丁目一五番です。
遺跡は、南を道めき谷津、北を千艘谷津という谷にはさまれた、細い尾根状の台地にあります。貝塚の規模は、外形で東西約二二五m、南北約一二〇mです。貝殻の散布は、南北の両斜面と、西は台地に乗りますが、西端の一部は通路のように途切れています。全体としてはU字形をなす斜面の馬蹄形貝塚です。
堀之内貝塚は、千葉県でも東京にもっとも近い大型の貝塚であること、林なので耕作のじゃまにならずに発掘できたため、早くから多くの考古学研究者や愛好家がおとずれています。
記録では、明治一六年(一八八三)が初出ですが、堀之内貝塚の名を有名にしたのは、明治三七年(一九〇四)の東京人類学会第一回遠足会の会場に選ばれ、その成果が各専門家により学会誌に報告されたことによります。
大正六年(一九一七)と大正一〇年に収集された土器に違いのあることに気づいた山内清男氏は、昭和一五年(一九四〇)に、この資料を基準に堀之内1式土器と堀之内2式土器を提唱しました。
その後も、昭和二九年(一九五四)の日本人類学会から委託された早稲田・慶應義塾・明治大学による発掘と地形測量、昭和三八年の明治大学による、最後となったB地点の発掘まで、実に多くの発掘がくりかえしおこなわれました。
貝は、イボキサゴという小さくて丸い巻貝が一番多く、ハマグリが次に多くなっています。ともに砂質干潟でとてる貝です。晩期では、ハマグリに次いでオキシジミが多くなります。泥の多い海岸になったと想定されます。魚では内湾のクロダイが多く、このほか東京湾でとれる各種の魚も捕獲されていました。かわったものではコウイカの多いことが特色です。これは甲羅のあるイカなのでわかったことです。陸獣では、イノシシとシカが主な食料となっていました。はじめはイノシシの方が多く、次第にシカが多くなります。しかし主食は遺物として残らない植物と考えられます。
発掘は部分的なものなので、全容は不明です。住居跡は台地の上から斜面にかけて、人骨は斜面部から発見されています。南の道めき谷津には、崖くずれで流れた遺物と、木の実をアクぬきする木組み施設が発見されています。水くみ場、舟着場と丸木舟も埋もれていることでしょう。数キロ離れた海へは、舟で往来していたと想像されます。(市川市教育委員会掲示より)

境内掲示による堀之内貝塚について

国指定史跡
堀之内貝塚
堀之内貝塚は国分谷の右岸、小支谷(南側メキ谷津、北川千隻谷津)が西方に入りこんで形成された細長い台地上の基部に所在する馬蹄形貝塚で、長径一〇〇m、最大短径一一〇mである。又、貝塚の開口部は東側にある。
明治時代よりひろく知られ、遠足会などと称していくども発掘されていたが、昭和二十九年、明治、慶応、早稲田三大学合同の発掘調査が日本人類学会七十周年記念事業として実施された。この時わが国でもはじめてといわれる馬蹄形貝塚の測量調査がおこなわれるとともに、二軒の縄文時代後期前葉(堀之内Ⅰ期、今から約四、〇〇〇年くらい前)の時期の竪穴住居址が発見されたほか、縄文時代後、晩期の土器、石器等が、又屈葬、仲伸葬の人骨各一体(堀之内Ⅰ期)が発見されている。さらに、昭和三十八年、明治大学考古学研究室による発掘調査が実施され(B地点)、縄文時代後、晩期の遺物抱合層の発見にともない、土器、石器をはじめとして、土版、貝輪、土製耳飾などの発見も報告されている。
これらの貴重な発見のほか、本貝塚をさらに有名なものとしたのは、昭和三年、故山内清男博士によって縄文時代土器編年の大綱がつくられた際、「堀ノ内土器」という土器形式が設定され、縄文時代後期前葉に位置つけられたことである。ちなみにこの堀之内式土器は昭和十五年、さらにⅠ、Ⅱという時期に区分され現在にいたっている。
本貝塚の構成は、ハマグリ、キサゴ、サルボウ、アカニシなど三十種以上もの貝類、又、シカ、イノシシなどの獣、スズキ、クロダイ、コチ、ボラなどの内湾性浅海の魚、マダイ、ヘダイ、ブリなどの海洋性の魚、さらにはクジラ、イルカの遺存骨などよりなり、又、コウイカ、コブイカの骨も発見されており、往時好んで捕食したものであろうか。(市川市教育委員会掲示より)


千葉縣東葛飾郡誌による堀之内貝塚について

(国分村誌)
村内低地は多く太古の入海なりしことは土地に殘れる碑に信を惜かずとするも、字堀の内臺地の基部一帶に「キシヤゴ」等不可食小貝の層をなして存在するに徴しを知るべし又同地方に千艘ヶ谷なる字名あり、大和民族繁殖時代に及びても、河海の何れかなりしならん。其の臺地に貝塚の多く存在し、石器の掘出さるもの鮮からざるを以て見れば所謂「コロボックル」の生棲せしを知るべく、又古墳に依ては、上古に於ける大和民族の居住を證據だつるに足る、(「千葉縣東葛飾郡誌」より)

堀之内貝塚の周辺図