明戸古墳石棺。市川市国府台にある旧跡・名所
明戸古墳石棺の概要
明戸古墳石棺は、市川市国府台にある名所旧跡です。明戸古墳石棺は、六世紀後半に築造された長四十mの前方後円墳の石棺です。明戸古墳古墳の頂上にあり、少なくとも19世紀には覆っていた土が崩され、に二基の石棺が露出、石棺には甲冑太刀類や金銀の鈴・陣太鼓、土偶などが納められていたといいます。
旧跡・名所名 | 明戸古墳石棺 |
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みどころ | 旧跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 市川市国府台3-9里見公園内 |
備考 | - |
明戸古墳石棺の縁起
明戸古墳石棺は、六世紀後半に築造された長四十mの前方後円墳の石棺です。明戸古墳古墳の頂上にあり、少なくとも19世紀には覆っていた土が崩され、に二基の石棺が露出、石棺には甲冑太刀類や金銀の鈴・陣太鼓、土偶などが納められていたといいます。
境内掲示による明戸古墳石棺について
明戸古墳は、全長四十mの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から六世紀後葉に造られたことがわかります。二基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、いまでもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ヶ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この二基の石棺は、天保七年(一八三六)年に発行された『江戸名所図会』に「石櫃二座。同所にあり。寺僧伝へ云ふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤なるべし。」と書かれ、図も描かれています。『江戸名所図会』によって十九世紀にはすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。(市川市教育委員会掲示より)
明戸古墳石棺の周辺図