国府台城跡。市川市国府台にある旧跡・名所

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国府台城跡。市川市国府台にある旧跡・名所

国府台城跡の概要

国府台城跡は、市川市国府台にある名所旧跡です。国府台城跡は、標高20-25メートルの下総台地の西端に位置、江戸川に並行する舌状の丘陵にある城跡です。国府台城跡は、太田道灌が文明10年(1478)に仮の陣城を築いたときにはじまるとも、千葉実胤・自胤兄弟が足利成氏に抵抗する際に立てこもった「市川城」にはじまるともいわれます。その後、国府台合戦の舞台となり、天文7年(1538)・永禄7年(1564)2度の戦いを経て、国府台城は小田原北条氏の手に渡り、戦国期の城郭に進化したものの、徳川家康の関東入国により廃城となりました。

国府台城跡
国府台城跡の概要
旧跡・名所名 国府台城跡
みどころ 旧跡
入場時間 -
入場料 -
住所 市川市国府台3-9里見公園付近
備考 -




国府台城跡の縁起

国府台城跡は、標高20-25メートルの下総台地の西端に位置、江戸川に並行する舌状の丘陵にある城跡です。国府台城跡は、太田道灌が文明10年(1478)に仮の陣城を築いたときにはじまるとも、千葉実胤・自胤兄弟が足利成氏に抵抗する際に立てこもった「市川城」にはじまるともいわれます。その後、国府台合戦の舞台となり、天文7年(1538)・永禄7年(1564)2度の戦いを経て、国府台城は小田原北条氏の手に渡り、戦国期の城郭に進化したものの、徳川家康の関東入国により廃城となりました。

境内掲示による国府台城跡について

「鎌倉大草紙」によれば、文明一〇年(一四七八)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
これより以前の康正二年(一四五六)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。
国府台は標高二〇~二五メートルの下総台地の西のはしで、江戸川に並行して南へ張り出した舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁上の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。
天文七年(一五三八)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方衆との戦いである。これに対して永禄七年(一五六四)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)。
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期ののものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。このちはその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。(市川市教育委員会掲示より)


国府台城跡の周辺図