手児奈霊堂。市川市真間にある旧跡・名所
手児奈霊堂の概要
手児奈霊堂は、市川市真間にある名所旧跡です。手児奈霊堂は、山部赤人が下総国府を訪れた際に詠み、万葉集に収録されている歌に登場する「手児奈」の墓所とされる地で、真間弘法寺七世日与上人が文亀元年(1501)に世に広めたといいます。手児奈の物語については諸説あるものの、山部赤人の活躍した奈良時代には既に伝説となっていて、現在まで語り継がれてきています。
旧跡・名所名 | 手児奈霊堂 |
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みどころ | 名所 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 市川市真間4-5-21 |
備考 | - |
手児奈霊堂の縁起
手児奈霊堂は、山部赤人が下総国府を訪れた際に詠み、万葉集に収録されている歌に登場する「手児奈」の墓所とされる地で、真間弘法寺七世日与上人が文亀元年(1501)に世に広めたといいます。手児奈の物語については諸説あるものの、山部赤人の活躍した奈良時代には既に伝説となっていて、現在まで語り継がれてきています。
境内掲示による手児奈霊堂について
奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたという伝承が残っている。その時に真間の手児奈を詠ったものが万葉集に収録されている。
『われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名(奈)が奥津城処』
手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(一五〇一)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽したとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。
万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学のふる里であるともいえる。(市川市教育委員会掲示より)
万葉集に謳われた歌について
われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名が奥津城処(山部赤人の歌 巻三挽歌)
万葉集巻三には「勝鹿の真間娘子の墓を過ぐる時山部宿禰赤人の作る歌一首幷短歌」として
「真間の手児奈の奥津城(墓)は、こことは聞いているけれど、真木の葉が茂っているせいだろうか、松の根が長く延びているように、時が永く経ったからであろうか、その墓はみえないが、手児奈の話だけでも、名前だけでも、私はいつまでも忘れることはできないでしょう」と歌った後にこの反歌(長歌の終りに詠み添える短歌)を載せて、
「やっとのことで探し当てたのだから、人にも語って聞かせましょう、真間の手児奈の墓所のようすを」
と結んでいるのです。
万葉歌人として世に知られた山部赤人や、高橋虫麻呂が下総国府(国府台に置かれたと推定されています)に来たころは、既に手児奈は伝説の人として真間の地に語り伝えられていたのです。(市川市教育委員会掲示より)
手児奈霊堂の周辺図