曽谷貝塚。市川市曽谷にある旧跡・名所
曽谷貝塚の概要
曽谷貝塚は、市川市曽谷にある名所旧跡です。曽谷貝塚は、下総台地西南端に位置する縄文時代後期の馬蹄形貝塚で、外径東西約210m・南北約240m、内径東西60~80m、南北210mの土手状の高まりに貝塚が分布しています。当地からは縄文時代後期前葉の縄文式住居址40軒、20体以上の埋葬人骨が発見されており、昭和54年国史跡に指定されています。
旧跡・名所名 | 曽谷貝塚 |
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みどころ | 国史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 市川市曽谷2-15 |
備考 | - |
曽谷貝塚の縁起
曽谷貝塚は、下総台地西南端に位置する縄文時代後期(紀元前2,000~1,000年)の馬蹄形貝塚で、曽谷式土器の標式土器として著名です。曽谷貝塚は、外径東西約210m・南北約240m、内径東西60~80m、南北210mの土手状の高まりに貝塚が分布しています。当地からは縄文時代後期前葉の縄文式住居址40軒、20体以上の埋葬人骨が発見されており、昭和54年国史跡に指定されています。
境内掲示による曽谷貝塚について
史跡
曽谷貝塚
ここは、今から三~四千年くらい前の縄文時代も終わりに近いころ、私たちの祖先である縄文人が、住居をつくり生活していた遺跡です。あたりには、貝の殻がたくさん散っていますが、ここで生活した縄文人が海辺で貝をとり、ここまで運んで身を食べ、殻を捨てたことによるものです。このような貝殻の散っている遺跡を、特に貝塚とよんでほかの遺跡と区別しています。
貝塚は、標高約二〇~二五mの下総台地に立地しています。それも平らなところではなく、窪みの周りが北を除いて土手状に高くなっているという、少し起伏のある微地形を選んでいます。貝殻は、このU字形の土手状の高まりに乗るように分布しています。この窪地を巡る高まりの地形が大きいことを反映して、貝層分布の範囲は、外径が南北約二四〇m、東西約二一〇m、内径が南北約二一〇m、東西約六〇~八〇mと、日本有数の規模をもっています。このような、C字やU字に貝層が分布している貝塚は、「馬蹄形貝塚」とよばれています。
この土手状の高まりは、周辺ではここだけにあるものですが、水はけの良い場所であったらしく、縄文人はここに竪穴住居をつくって住んでいました。そして住まいの周りには、食べかすとしての貝殻や骨、あるいは壊れた土器や石器などの道具を捨て、死んだ仲間を埋葬するなど、彼らの集落生活を物語る痕跡が多くみられます。これまでに、四〇軒をこえる竪穴住居の址、二〇体をこえる埋葬人骨が発見されています。しかし、未発掘の面積の方が調査の済んだ面積よりもはるかに多く、まだまだたくさんの住居跡や人骨が、曽谷の縄文人の使った道具などをいっしょに埋もれています。
曽谷貝塚の名を学会で有名なものとしたのは、昭和十二年の山内清男氏による「曽谷式土器」の提唱によるものです。この例数の少ない「曽谷式土器」を発見しようというのが、その後の曽谷貝塚調査の重要なテーマでした。
今から三~四千年前、このあたりは、コナラを中心にクリなど冬に葉が落ちる落葉広葉樹林でおおわれ、シイ・カシなどの照葉樹が次第に増えてきたことが想像されます。クリ・トチノミ・いろいろなドングリの実が、大量に採集され、保存食にもなったと考えられます。そこは、イノシシやニホンジカなどのいる山野でもあり、弓矢などでとっていました。貝や魚は、すべて海のもので、おそらく二km以上離れている菅野付近まで出かけ、海辺の干潟でハマグリなどの貝をとり、また海に出てスズキやクロダイなどの魚をとっていたことでしょう。豊かな自然の恵みが、この曽谷の縄文ムラでの生活を豊かなものとしていたのです。
この曽谷貝塚は、後世の人びとにも伝え、残していくため、「国史跡」として指定され、保護されているのです。(市川市教育委員会掲示より)
曽谷貝塚の周辺図