仏性山法善寺|行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所
法善寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の法善寺は、仏性山と号します。法善寺は、豊臣家に仕えていた片桐且元の家臣河本弥左衛門(大僧都宗玄和尚)が慶長5年(1600)当地に住み一宇を建立して創建したといいます。河本弥左衛門は元和7年(1627)大僧都権大僧都に任ぜられるとともに、海岸の荒地だった当地を開拓、製塩の製法を村人に教えたことから「鹽場寺」と呼ばれるようになりました。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所14番札所です。
山号 | 仏性山 |
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院号 | - |
寺号 | 法善寺 |
住所 | 市川市本塩1-25 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法善寺の縁起
法善寺は、豊臣家に仕えていた片桐且元の家臣河本弥左衛門(大僧都宗玄和尚)が慶長5年(1600)当地に住み一宇を建立して創建したといいます。河本弥左衛門は元和7年(1627)大僧都権大僧都に任ぜられるとともに、海岸の荒地だった当地を開拓、製塩の製法を村人に教えたことから「鹽場寺」と呼ばれるようになりました。
市川市教育委員会掲示による法善寺の縁起
本寺は慶長五年(一六〇〇)宗玄和尚の開基と伝えられる浄土真宗の寺院です。
宗玄和尚は俗名を河本弥左衛門といい、かつて、片桐且元の家臣として豊臣家に仕えていましたが、関ヶ原合戦ののち行徳に来住し、仏門に帰依してこの地に一寺を建立したのが、この法善寺の起りといいます。
弥左衛門は元和七年(一六二七)大僧都に任じ、宗玄と称しましたが、寛永十八年(一六四一)二月、八十四歳で示寂しました。
かれは当時、この辺りが海岸に面しており、荒地が広がっていたところから、土地の開拓をはじめ、特に海岸には塩田をつくって製塩の方法を村人たちに教えたといいます。この法善寺が俗に『鹽場寺』と呼ばれているのは、このことからです。
本堂前にある松尾芭蕉の『うたがふな潮の華も浦の春』
と刻した句碑は『潮塚』とよばれていますが、この句は芭蕉が伊勢国(三重県)の二見ヶ浦で詠んだものを、寛政九年(一七九七)芭蕉の百回忌(芭蕉百回忌は正確には寛政六年です。)を記念して、行徳の俳人戸田麦丈等によって建てられたものです。
法善寺の本堂は、かつて三重県の茅葺屋根をもった壮大なものであったといわれますが、明治十四年(一八八一)四月、火災によって寺の記録や宝物など、すべてが焼失してしまいました。(市川市教育委員会掲示(境内掲示より)
「市川市内の寺院明細帳」による法善寺の縁起
開基宗玄俗称ハ片桐氏ノ家臣河本弥左衛門真宗ノ教ニ帰依シ出家シテ宗玄ト称シ本駅字寺町ニ一寺ヲ創立シテ法善寺ト号ス東山天皇御宇元和七年六月一日権大僧都ニ任セラル其後元禄年間塩浜開拓ノ節境内ノ狭隘ヲ患ヒ自己ノ資金ヲ以テ荒蕪不毛ノ地ヲ開墾シ寺ヲ此地ニ移転ス即チ現今ノ境内外是ナリ夫ヨリ子孫継職シテ任セラル第九世得碓本堂庫裏等ヲ修繕シ梵鐘ヲ鋳ル于時文政九年八月某日回禄ニ罹リ堂宇古記録等悉皆烏有トナル第十一世寂聴仮本堂庫裏ヲ建立シ子孫ノ為本行徳駅字新田ノ田面ヲ購ス(「市川市内の寺院明細帳」より)
法善寺の周辺図
参考資料
- 「千葉県浄土真宗本願寺派寺院誌」
- 「市川市内の寺院明細帳」